人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

Xの祈り

2017-12-24 11:37:30 | 祈りと瞑想
「かの日には、私が父の内におり、あなた方が私の内におり、私もあなた方の内にあることが分かるだろう」(ヨハネ伝第14章)

今年も"X"の日を迎えようとしています。
私は毎朝祈りを欠かしたことが無いですが、それは全く形式的なものです。
それ以外決まった時間に祈ったり、瞑想したりすることが無いですが、特にどうにも気分が落ち込んでいたり、迷っている時など取り合えず、祈ってみたりします。
その場合は特別な祈りの文句がある訳ではありません。フッと意識が祈り的な方に切り替わるようなことです。
言い替えると、身に覚えているものを意識するようなことです。
これは誰にも分からない"X"の祈りみたいなものです。
すると...アッという間にジンジンと、全身心にあの息吹、バイブレーションに包まれることしばしばです。
これは、そういうことをこうして書いている最中にも起こることなのです。
直ちにこの現実が...リアルに現わなものとならざるを得ません。現在に臨むのです。
(文章に段々脈略が無くなってきそうです)
そして、時にそれが深くなると、"あの御方"の中にあるという感じになります。
あの御方とは、イエスとかブッダ、阿弥陀様、産土の神スサノオ...どの御方、ということが出来ません。
私には限定することが出来ないのです。"X"なる御方なのです。
障てるもの無く、普ねきところに生きている方であっても、多様に別々に分かれている訳ではありません。
こちらを捉える時は、どこまでも単一に、純一にハタラキたもうのです。私がこの世に唯一の者であるように...
しかも、ただ一つあるだけでなく、そこにはすべてが内包されてある...
すべてで一つの御方としか言い様がありません。
この臨在は私の内なるものを開き、浸透し、ずっと世の初めから私と共にあり、内住していたことを明らかにします。
私の内も外もこの御方で満たされてしまう...
深い祈りというのは、深い瞑想と同じなのです。
祈りも瞑想もそれ自体に意味があるものでも、ある精神的境地、あるいは悟りを目指しての方法というものでもありません。
どこまでもそれは、"私の内にも外にもこの御方がある"ことを知らしめることばかりではないでしょうか?
この御方無しに、目覚めや悟りや霊的進化があったとして、真理が分かったとして何になるだろう...
この御方の息吹の中にあって...このすべてで一つの世界が...
そう、世界...この目に見える幻想と混迷に満ちた世界が、あの普遍調和の世界へと化せられていくのをヒシヒシと感じています。

今、世界はあなたの中にあります
外なる世界はあなたを知らなくとも...
しかし、やがて懺悔と歓喜の涙と共に知らされるだろう...
外にあるものは、内にあるものとなり、
内にあるものは、外にあるものとなるのを...

その日は...X






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