前回の続きのようなことを書いてみたいと思いますが、世の中から"死の恐怖"というものが無くなればとてつもない変容が起こるだろう、と思います。
死の向こうで我々はどんな有り様で在り続けるのか、あるいは無くなるのかはともかく ...
しかし...ある人には、死の関門を乗り越えることが出来たとしても、地獄の関門(!)が待ち受けているのかも分かりません。
その人には誰に教わるでもなく、不死信仰が刷り込まれているようです。楽観的なそれよりもはるかに強固なものとして...
もしかして、死の恐怖に横たわっているものは、多くこの別なる恐怖なのかもしれません。
近年のスピ界隈では、"人は死なないもので、永遠に生き続ける"と説かれるのはもうお馴染みな訳ですが、例えばあなたの大切な家族、愛する人が猟奇的殺人者に無惨に殺されてしまったとしたらどうでしょう。
なるほど、"大切な人は死んで消えてしまう訳じゃないんだから、又、再びこの世に戻ってくるんだから、それはしばしの別れみたいなもの..."というようなことは、そうなっていることが当たり前のように、受け入れられた世の中にあって(その日はくるのかどうかはともかく)こそ言えることではありませんか?
スピ教師の常套句じゃないけど、そういうことは"今"、問われなければ意味はないのです。
あなたは今、その信仰を受け入れられるでしょうか? 溢れ出る悲しみの感情を押さえることが出来るでしょうか?
そう言われている教えというのは、彼らがそう言っていることに過ぎず、自分の身に関わることとは受け方は全く異なるものでしょう。自分自身の問題なのです。
スピの教えには又、時にこうした言説にも出くわすのですが、その犯罪者は善悪というものは本来無いもので、誰にも裁く理由は無いのだと言います。
凶悪な殺人者への許しがたい思いというものを信仰で誤魔化すことが出来るでしょうか?
こうしたスピの教えからは、我々の根強い罪の意識、他を裁く意識からの解放という意図といったものも感じられないでもないですが...感情の自然な発露というものが不問にされているように思えてなりません。
上記のことは勿論社会が定めた法、制裁とは別のことを言っているのですが、宗教的倫理から解放されているようで、神も裁きたまわないのです。
人を何人殺そうが本来的に罪も裁きも無いi 当然のことながら永遠の地獄というものも無いのです。
地獄というものはそも何でしょうか? それは死んでみなきゃ分からん、のと同じく落ちてみにゃ分からないでしょう。
しかしまあ、想像ですけど、それは完全に自我の思いで塞がったガンジガラメ状態のようなものでしょうか?それも常に何者かに責められ続けるという...何にしろ地獄の実在論は、神の愛より根強く信じられているのはどういう訳でしょう...
強く感じているのは、それは思いと共にあるもので、思考の産物(空想の産物という意味ではない)ではないか、ということです。善悪の観念というものが、いやあらゆる相対的観念がそうであるように、です。
そうなると、もし我々の思考というものが働かなくなったら、それらは消えてゆくことになりそうです。
逆に言えば、こういう諸々の思いで生きている今の我々には、そういうものが付きまとうということになるでしょう。
思いの彼方の世界というものは、私も垣間見たことがあるとはいえ、思われたままの我々の生き方がどのようにそっちにつながるか、つながらないのか、ということは分からないのです。
と言うよりも...人の事は分からないのです。あなたにはあなたの門、道がある、世界があるとしか言えません。
私がそれを許されたのは、世にも恐ろしい、神の裁き(みたいに思い込んでいた)のような、あのすべてを見通す目の照射を受けたからです。
(地獄の恐怖に横たわっているのは、こうゆうものでしょうか? これを克服するには...向き合うしかありませんi、そしてありのままを認めるしかありませんi)
して、"ここでは何も咎められてはいないi" 故に許された、許されていたのです。
そこから開かれた世界では思われた世界から持ち越されているものと、幻想のように消えて行ったものとがありやかになっていました。
そこで持ち越され、リアルに感じられるものは、ことごとく身に覚えているのです。
それは、思いの世界で泣いたり、笑ったり、感動したりの生活の中のことごとくの"生けるもの"ともいうべきものが反映されていました。
その"はかり"は倫理的なものとは全く異なるものです。善でも悪でも無いものなのです。
人の事は分からないけど、あの門を通れないのか、通ろうとしない生もあるように感じられました。
思いを超えた世界が直ちに死後の世界と言うことは出来ないだろうし、思われた個人がそのままそっちに移行するとも言えないことですが、この部分で相即しているものを感じました。
いかにこの世はバカバカしいものであっても、けっして仮初めのものとして片付けられないものでしょう。
その裏側には、思われたもの以上の深み、広がりがあるとはいえ、この生は二度となく、我々一人一人はかけがえのない存在であるのに違いは無いでしょう。
我々に生まれつき備わっている感情には、生あるもの、命への畏怖というものが込められているのではないでしょうか?
しかし、徐々に思われた世界がぐらつき出しているのを見るにつけ、人生も世界も深み、広がりをもったものに変わりつつあるという、その予感は感じてはおります。
死の向こうで我々はどんな有り様で在り続けるのか、あるいは無くなるのかはともかく ...
しかし...ある人には、死の関門を乗り越えることが出来たとしても、地獄の関門(!)が待ち受けているのかも分かりません。
その人には誰に教わるでもなく、不死信仰が刷り込まれているようです。楽観的なそれよりもはるかに強固なものとして...
もしかして、死の恐怖に横たわっているものは、多くこの別なる恐怖なのかもしれません。
近年のスピ界隈では、"人は死なないもので、永遠に生き続ける"と説かれるのはもうお馴染みな訳ですが、例えばあなたの大切な家族、愛する人が猟奇的殺人者に無惨に殺されてしまったとしたらどうでしょう。
なるほど、"大切な人は死んで消えてしまう訳じゃないんだから、又、再びこの世に戻ってくるんだから、それはしばしの別れみたいなもの..."というようなことは、そうなっていることが当たり前のように、受け入れられた世の中にあって(その日はくるのかどうかはともかく)こそ言えることではありませんか?
スピ教師の常套句じゃないけど、そういうことは"今"、問われなければ意味はないのです。
あなたは今、その信仰を受け入れられるでしょうか? 溢れ出る悲しみの感情を押さえることが出来るでしょうか?
そう言われている教えというのは、彼らがそう言っていることに過ぎず、自分の身に関わることとは受け方は全く異なるものでしょう。自分自身の問題なのです。
スピの教えには又、時にこうした言説にも出くわすのですが、その犯罪者は善悪というものは本来無いもので、誰にも裁く理由は無いのだと言います。
凶悪な殺人者への許しがたい思いというものを信仰で誤魔化すことが出来るでしょうか?
こうしたスピの教えからは、我々の根強い罪の意識、他を裁く意識からの解放という意図といったものも感じられないでもないですが...感情の自然な発露というものが不問にされているように思えてなりません。
上記のことは勿論社会が定めた法、制裁とは別のことを言っているのですが、宗教的倫理から解放されているようで、神も裁きたまわないのです。
人を何人殺そうが本来的に罪も裁きも無いi 当然のことながら永遠の地獄というものも無いのです。
地獄というものはそも何でしょうか? それは死んでみなきゃ分からん、のと同じく落ちてみにゃ分からないでしょう。
しかしまあ、想像ですけど、それは完全に自我の思いで塞がったガンジガラメ状態のようなものでしょうか?それも常に何者かに責められ続けるという...何にしろ地獄の実在論は、神の愛より根強く信じられているのはどういう訳でしょう...
強く感じているのは、それは思いと共にあるもので、思考の産物(空想の産物という意味ではない)ではないか、ということです。善悪の観念というものが、いやあらゆる相対的観念がそうであるように、です。
そうなると、もし我々の思考というものが働かなくなったら、それらは消えてゆくことになりそうです。
逆に言えば、こういう諸々の思いで生きている今の我々には、そういうものが付きまとうということになるでしょう。
思いの彼方の世界というものは、私も垣間見たことがあるとはいえ、思われたままの我々の生き方がどのようにそっちにつながるか、つながらないのか、ということは分からないのです。
と言うよりも...人の事は分からないのです。あなたにはあなたの門、道がある、世界があるとしか言えません。
私がそれを許されたのは、世にも恐ろしい、神の裁き(みたいに思い込んでいた)のような、あのすべてを見通す目の照射を受けたからです。
(地獄の恐怖に横たわっているのは、こうゆうものでしょうか? これを克服するには...向き合うしかありませんi、そしてありのままを認めるしかありませんi)
して、"ここでは何も咎められてはいないi" 故に許された、許されていたのです。
そこから開かれた世界では思われた世界から持ち越されているものと、幻想のように消えて行ったものとがありやかになっていました。
そこで持ち越され、リアルに感じられるものは、ことごとく身に覚えているのです。
それは、思いの世界で泣いたり、笑ったり、感動したりの生活の中のことごとくの"生けるもの"ともいうべきものが反映されていました。
その"はかり"は倫理的なものとは全く異なるものです。善でも悪でも無いものなのです。
人の事は分からないけど、あの門を通れないのか、通ろうとしない生もあるように感じられました。
思いを超えた世界が直ちに死後の世界と言うことは出来ないだろうし、思われた個人がそのままそっちに移行するとも言えないことですが、この部分で相即しているものを感じました。
いかにこの世はバカバカしいものであっても、けっして仮初めのものとして片付けられないものでしょう。
その裏側には、思われたもの以上の深み、広がりがあるとはいえ、この生は二度となく、我々一人一人はかけがえのない存在であるのに違いは無いでしょう。
我々に生まれつき備わっている感情には、生あるもの、命への畏怖というものが込められているのではないでしょうか?
しかし、徐々に思われた世界がぐらつき出しているのを見るにつけ、人生も世界も深み、広がりをもったものに変わりつつあるという、その予感は感じてはおります。