「存在以前に至高の自由がある。自由は何ものによっても規定出来ず、無根拠の深淵より生ずる」(ベルジャーエフ)
何事でもそうですが、ものの観方、感じ方というのは人それぞれです。
ことに宗教や哲学、スピなど精神に関わることというのは、主観というものが付きまとう訳だし、ほとんど確証など出来ないことなのです。
然るになんとその界隈には偏った、囚われた見解が多いことでしょうかi
いや、むしろそれが見えないものだからこそ、"確たるものにしないとならない"という熱情に人々を駆り立てるのかもしれませんね。
忘れちゃいけませんi あなたと私の世界には、ゼッタイ(強調しようとすると、ついこう使いたくなるサガi)にあなたと私にしか分からない、通じない、何人も入ることの許されない世界が在るのです。
それは言うなれば絶対的"個"の世界です。そこにはあのウンザリするほど呪わしき人間関係にまつわる、業的もたれ合い、もつれ合いというものはありません。
我々はそこでどこまでも(おそらく神からも)自由になれるはずなのです。
あなたも私も世界や全体の一部としてあるのではなく、自体が世界であり、独立しているのです。
非二元論者が"私という個はいない"と言うのなら、勝手に虚無宇宙に消えて行ってしまえばいいだろうi それも彼の自由なんだから...
いつも言うように、彼らは事の一面をさも、それがすべてであるかのように語っているに過ぎないのです。それも好き好きには違いないが...
そうです。絶対的個の自由が無ければ、誰も好きな事は言えないのですi
私は、この絶対的自由の領域を目の当たりにし、それを何人も入ることの許されないことから"至聖所"と呼んでいるのです。
ウスペンスキーは、彼の"実験"の中で二つの側面を示す心像があったと述べています。
一つは「世界と人生の個々の側面のすべて」であり、これから「全世界の起源、あらゆる観念の起源」を知ったと言い、所謂ワンネス、非二元的な世界のことを伝え、もう一つの側面は「個別のものに関わっていた」としています。
そしてこの「第一の原理と第二の原理の間には常に溝、又は空白が割り込んでくる」と述べているのですが、この部分が私にはよく分からないのです。
"空白" ...これは、ベルジャーエフが随所で述べていた無根拠なる"深淵"、又彼が影響を受けた16ー17世紀のドイツの神秘思想家ヤーコプ.ベーメが説いた万物の根源、"無底"といったものと関連があるのでしょうか?
それは、"割り込んでくる"、別のところで"形成される"とも書かれていますが、それは原初から在る(本当は在るとは言えないが)ものではないのか? まあ、感じ方は自由ですが...
ウスペンスキーは、この消息を如何にも数学、幾何学的な説明で述べているので、私には理解しにくい点が多いのですが、その個々の差異化と一なるものへの統合化は出会うことが無いと言います。
どうもそれをもたらしているのがその空白で、その有り様は「まったく計り知れないものであり続けた」そうです。
私には、この底無しの深淵(無限の虚空といった感じではありません)らしきものは、あの原初的自由(これは絶対的個と結び付いています)の出所のようなものとしてしか感じられませんでしたが、その自由というものは、矛盾するもののように捉えられやすい、あの一なるものとのつながり(これは業的もつれ合いの裏表のようなものです)を通して感じられ、又その一なるものは真個といったものが、そのように際出たしていたのです。
裏側の世界で私の意識は 一なるユニティの世界と個的自由の世界を行ったり来たりしていたのです。
全的なものと個的なものは、分離しておらず、重合していた...さりとて一つではない(すべてで一つとしか言い様がありません) ...そこにはやはり空白、深淵が横たわっているのか?
これ以上は私には言い表すことも、理解も出来ません。そこに入り込んだら戻ってこれなくなりそうです。
おそらく、何一つ決まったものというのは無いってことなのでしょうか?
自由は、如何なる存在からも真理からも自由であり、あらゆるものに先立つものなのかも分かりません。
然るに ...ここかしこに漂う閉塞感、しがらみといったものは一体どうしたものでしょうか...されど、いつもこうして好きな事言っている次第です。
何事でもそうですが、ものの観方、感じ方というのは人それぞれです。
ことに宗教や哲学、スピなど精神に関わることというのは、主観というものが付きまとう訳だし、ほとんど確証など出来ないことなのです。
然るになんとその界隈には偏った、囚われた見解が多いことでしょうかi
いや、むしろそれが見えないものだからこそ、"確たるものにしないとならない"という熱情に人々を駆り立てるのかもしれませんね。
忘れちゃいけませんi あなたと私の世界には、ゼッタイ(強調しようとすると、ついこう使いたくなるサガi)にあなたと私にしか分からない、通じない、何人も入ることの許されない世界が在るのです。
それは言うなれば絶対的"個"の世界です。そこにはあのウンザリするほど呪わしき人間関係にまつわる、業的もたれ合い、もつれ合いというものはありません。
我々はそこでどこまでも(おそらく神からも)自由になれるはずなのです。
あなたも私も世界や全体の一部としてあるのではなく、自体が世界であり、独立しているのです。
非二元論者が"私という個はいない"と言うのなら、勝手に虚無宇宙に消えて行ってしまえばいいだろうi それも彼の自由なんだから...
いつも言うように、彼らは事の一面をさも、それがすべてであるかのように語っているに過ぎないのです。それも好き好きには違いないが...
そうです。絶対的個の自由が無ければ、誰も好きな事は言えないのですi
私は、この絶対的自由の領域を目の当たりにし、それを何人も入ることの許されないことから"至聖所"と呼んでいるのです。
ウスペンスキーは、彼の"実験"の中で二つの側面を示す心像があったと述べています。
一つは「世界と人生の個々の側面のすべて」であり、これから「全世界の起源、あらゆる観念の起源」を知ったと言い、所謂ワンネス、非二元的な世界のことを伝え、もう一つの側面は「個別のものに関わっていた」としています。
そしてこの「第一の原理と第二の原理の間には常に溝、又は空白が割り込んでくる」と述べているのですが、この部分が私にはよく分からないのです。
"空白" ...これは、ベルジャーエフが随所で述べていた無根拠なる"深淵"、又彼が影響を受けた16ー17世紀のドイツの神秘思想家ヤーコプ.ベーメが説いた万物の根源、"無底"といったものと関連があるのでしょうか?
それは、"割り込んでくる"、別のところで"形成される"とも書かれていますが、それは原初から在る(本当は在るとは言えないが)ものではないのか? まあ、感じ方は自由ですが...
ウスペンスキーは、この消息を如何にも数学、幾何学的な説明で述べているので、私には理解しにくい点が多いのですが、その個々の差異化と一なるものへの統合化は出会うことが無いと言います。
どうもそれをもたらしているのがその空白で、その有り様は「まったく計り知れないものであり続けた」そうです。
私には、この底無しの深淵(無限の虚空といった感じではありません)らしきものは、あの原初的自由(これは絶対的個と結び付いています)の出所のようなものとしてしか感じられませんでしたが、その自由というものは、矛盾するもののように捉えられやすい、あの一なるものとのつながり(これは業的もつれ合いの裏表のようなものです)を通して感じられ、又その一なるものは真個といったものが、そのように際出たしていたのです。
裏側の世界で私の意識は 一なるユニティの世界と個的自由の世界を行ったり来たりしていたのです。
全的なものと個的なものは、分離しておらず、重合していた...さりとて一つではない(すべてで一つとしか言い様がありません) ...そこにはやはり空白、深淵が横たわっているのか?
これ以上は私には言い表すことも、理解も出来ません。そこに入り込んだら戻ってこれなくなりそうです。
おそらく、何一つ決まったものというのは無いってことなのでしょうか?
自由は、如何なる存在からも真理からも自由であり、あらゆるものに先立つものなのかも分かりません。
然るに ...ここかしこに漂う閉塞感、しがらみといったものは一体どうしたものでしょうか...されど、いつもこうして好きな事言っている次第です。