"ある人のことが憎たらしくって治まらない...
でも...人を憎んだりしてはイケナイ...
人はよく思わないし...それは神にもとることだから..."
というようなことは、良心的な信仰者などは一度は思い、葛藤を抱えてしまったことがあるでしょう。
実にストレスが溜まる話ですよね。
そういう時は、一思いにその人を...
"ブッ殺しちまえばいいi"
も、もちろんそれは、思いの中でってことですよi だけどそうしたくても、善なる思い(ホントーに、ホントーにそういう思いってあると思います?)がブレーキをかけてて、胸の辺りがモヤモヤしているんでしたね。
これを神の名において、神にあって...要するに神を意識してやってみるのです。(神と共にということが肝心です。そこに許しがあるということです)
なるべく、その憎っくき相手の顔をアリアリと思い描き(容易く浮かび上がるものだ)、具体的にリアルに殺害状況をも思い描く...私は計画殺人なんてのはムリですi 右京さんの顔がすぐ浮かびそうで...直情的なのでもう、ナタか金ヅチで、バキバキ、ガンガン、ギューギューで、"アイ.アム.ブルーザーi"
"アッ、動かんi 誰も見てない!...いや、見ていたi あのすべてを見透す目が..." もう、隠しようが、逃れようがありません。
誰にもナイショにしていた自分のなかの悪い思いが、明るみに出されるのです。
自分自身の心をも偽り、覆い隠していたこの否定の思い...それに向き合い、認めてあげることで、いつの間にか悪いものが消えてしまいます。
消えるのは憎っくき相手じゃありません。自分の思いですi ここを誤解することで世の中に悪(と思えるもの)がいつまでも増幅し続けるのです。
又、思っているだけなのに自責の念に駆られるかも分かりません。"神の怒りが...神は許してくれない"という...
だったら、いっそのこと神に罰されることを祈ってみたらいいでしょう! ずっと罪意識に苛まれるくらいなら...神のそのすべてに及ぶ力というものを、この身に下してもらおうじゃありませんかi
おそらく、居るのか、居ないのか分からない神の守護を祈っている時よりも、人生で初めて真剣に、意識的に祈れるかもしれません。
"意識的になる"...それは向き合うことです。
善なるもの、清いもの、完全なるもの...思われた神の属性であるかの如く思念で塗り固め、その下で悪く、汚く、不完全なものとして封印してきた思いに向き合うのです。
逆説的ながら、かたチンバなる完全さというものは不完全なのですi
観念のフタの下からはカタワなる神ーサタンが、闇の勢力が、善なる神に立ちはだかります。
神が本当に居るか、どうかはバチでも当たってみたら分かりますi "ドヤi 当ててみいi"
逃れようがないのだから、開き直るしかない...そうですi 本当に開かれるのです。思いの壁が...
そして、あれほど囚われていたことが、アッという間に熔解してしまうのですi 神に対しての偏った"不完全な"思い込みも...
神的なハタラキとは、無のハタラキです。思いが無化されるところから開かれるのです。
神は如何なる思いも超えているのです。示されたことを受け入れる、認めるしかありません。ネガティブな悪しき自分も...
すると、もう生まれ変わったようになります。しかし、一時的にそうなっただけで元の木阿弥になるかも分かりません。
で..."ああ、やっぱり私は..." そう、じゃないi 自分でどうなる、こうなるってことじゃないのですi
こうしたことを通して、"自分は無力だ"ということを分からせてもらうということなのです。
"自分で何とか出来る、自分は常に正しい、悪などナイ、ナイ" "神は自分が思っている善と光の世界にしかお在さない" その限定された思いがリアルな現臨から遠ざけているのではないでしょうか?
"神はこんな悪い、汚い世界には居ない" それが地獄的な想念を作り出しているのでしょう。
自分自身に向き合うことは、とても勇気がいることで出来ない? 向き合わそうとするものにコミットしてみる(乗っかる)。
何だって? そおいう思いを超えたナントカが信じられない? ウソをおっしゃいi 神の裁きが恐くて夜も寝られんくせにi
これは、我々の中に根強くある(神の愛を信じることよりも)否定の念を逆利用するようなことなのです。
我々の世界の平和は、自分との和解から生まれるのでしょう。
でも...人を憎んだりしてはイケナイ...
人はよく思わないし...それは神にもとることだから..."
というようなことは、良心的な信仰者などは一度は思い、葛藤を抱えてしまったことがあるでしょう。
実にストレスが溜まる話ですよね。
そういう時は、一思いにその人を...
"ブッ殺しちまえばいいi"
も、もちろんそれは、思いの中でってことですよi だけどそうしたくても、善なる思い(ホントーに、ホントーにそういう思いってあると思います?)がブレーキをかけてて、胸の辺りがモヤモヤしているんでしたね。
これを神の名において、神にあって...要するに神を意識してやってみるのです。(神と共にということが肝心です。そこに許しがあるということです)
なるべく、その憎っくき相手の顔をアリアリと思い描き(容易く浮かび上がるものだ)、具体的にリアルに殺害状況をも思い描く...私は計画殺人なんてのはムリですi 右京さんの顔がすぐ浮かびそうで...直情的なのでもう、ナタか金ヅチで、バキバキ、ガンガン、ギューギューで、"アイ.アム.ブルーザーi"
"アッ、動かんi 誰も見てない!...いや、見ていたi あのすべてを見透す目が..." もう、隠しようが、逃れようがありません。
誰にもナイショにしていた自分のなかの悪い思いが、明るみに出されるのです。
自分自身の心をも偽り、覆い隠していたこの否定の思い...それに向き合い、認めてあげることで、いつの間にか悪いものが消えてしまいます。
消えるのは憎っくき相手じゃありません。自分の思いですi ここを誤解することで世の中に悪(と思えるもの)がいつまでも増幅し続けるのです。
又、思っているだけなのに自責の念に駆られるかも分かりません。"神の怒りが...神は許してくれない"という...
だったら、いっそのこと神に罰されることを祈ってみたらいいでしょう! ずっと罪意識に苛まれるくらいなら...神のそのすべてに及ぶ力というものを、この身に下してもらおうじゃありませんかi
おそらく、居るのか、居ないのか分からない神の守護を祈っている時よりも、人生で初めて真剣に、意識的に祈れるかもしれません。
"意識的になる"...それは向き合うことです。
善なるもの、清いもの、完全なるもの...思われた神の属性であるかの如く思念で塗り固め、その下で悪く、汚く、不完全なものとして封印してきた思いに向き合うのです。
逆説的ながら、かたチンバなる完全さというものは不完全なのですi
観念のフタの下からはカタワなる神ーサタンが、闇の勢力が、善なる神に立ちはだかります。
神が本当に居るか、どうかはバチでも当たってみたら分かりますi "ドヤi 当ててみいi"
逃れようがないのだから、開き直るしかない...そうですi 本当に開かれるのです。思いの壁が...
そして、あれほど囚われていたことが、アッという間に熔解してしまうのですi 神に対しての偏った"不完全な"思い込みも...
神的なハタラキとは、無のハタラキです。思いが無化されるところから開かれるのです。
神は如何なる思いも超えているのです。示されたことを受け入れる、認めるしかありません。ネガティブな悪しき自分も...
すると、もう生まれ変わったようになります。しかし、一時的にそうなっただけで元の木阿弥になるかも分かりません。
で..."ああ、やっぱり私は..." そう、じゃないi 自分でどうなる、こうなるってことじゃないのですi
こうしたことを通して、"自分は無力だ"ということを分からせてもらうということなのです。
"自分で何とか出来る、自分は常に正しい、悪などナイ、ナイ" "神は自分が思っている善と光の世界にしかお在さない" その限定された思いがリアルな現臨から遠ざけているのではないでしょうか?
"神はこんな悪い、汚い世界には居ない" それが地獄的な想念を作り出しているのでしょう。
自分自身に向き合うことは、とても勇気がいることで出来ない? 向き合わそうとするものにコミットしてみる(乗っかる)。
何だって? そおいう思いを超えたナントカが信じられない? ウソをおっしゃいi 神の裁きが恐くて夜も寝られんくせにi
これは、我々の中に根強くある(神の愛を信じることよりも)否定の念を逆利用するようなことなのです。
我々の世界の平和は、自分との和解から生まれるのでしょう。