人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

人は死なない?

2017-12-11 16:31:18 | 雑感
宗教、スピ界などでは死の問題は避けて通れないものですね。
哲学的に「死とは何ぞや?」と、抽象的に論じたりする傾向もありますが、結論を急ぐ人たちは大方は、人間は死んだらそれっきりオシマイとみるか、悟ったような誰かとか、その団体が説いている「肉体は死んでも魂は永遠に生き続ける」といった不死信仰に安易に迎合してしまうか、どちらかになるしかなさそうです。
しかし、現にここで生きている人たちにとっては「死んでみなきゃ分からんi」ということにならざるを得ないことでしょう。
要するに、「死んだらオシマイ」と言うも「死なんて無いんですよー」と言うも、それは他人が、世の中がもっとらしく言っているだけなのです。
あなたと私の死の問題とは、信じたらそれで終わりという訳には行かないはずなのです。
誰にでも必ず訪れるこの関門に対して、容易く"死ぬ信仰"、"死なない信仰"で片付けられていいものでしょうか?
信仰というものは得てしてそれが強固になるほど、我々が直接向き合わなければならないものに覆いをかけ、そこから明らかになる道を閉ざしてしまうものです。
もっとも"不死信仰"は、誰しもが感じているであろう、"死の恐怖"に対し、時には慰みになるもので、その事とは別の話ではあります。
死の問題とは如何なるものか? それはひっきょう、この死の恐怖に如何に向き合うか、ということに尽きるのではないでしょうか?
死の恐怖さえ克服出来れば、世の中からほとんどの問題は解決されると言っても過言ではないでしょう。
要するに、大概の恐れているものはクリア出来そうってことです。
"待ったあi オイ、オイ、これは不死信仰への誘導では無いのかi"って...
いや、それはどこまでも、分からんものは分からんのです。でも私は死の恐怖が無くなったことは経験したことがあります。
勿論、それは"人生の裏側"に関連したことではありますが、それは直ちに"個人生命の不滅"と結び付く訳ではありません。
この事に関して前回紹介した、ウスペンスキーの"実験"の中に興味深い記述があります。
彼は、その過程で亡くなった知人に会ったと言います。しかし、彼が見たのは彼の"外見"ではなく、彼の"全生涯"だった、と言う...
「私が知っていたのはいわば彼の"顔"であって、歳月と共に変化するが、その背後には常に同一不変の実在がある」
そういう言及はありませんが、これは見ている彼自身についても描写し得ることでしょう。もしかしたら分かつことの出来ない普遍的関係の中でその変容した知人に出会っているのかも知れません。
この普遍(不変)的実在は、宇宙的全体といったものではとても言い表せないものです。
ウスペンスキーは、それに思われたもの以上の「独立した存在」ということを認めているのです。彼はそれを木の枝に喩え、普段見ている人間は枝の断面にあたる、としています。
私にはイエスじゃないけど、フラクタルなつながりは葡萄の木みたいなもので、個々の生はその一粒みたいに感じたのでした。
私はそこで、今生の生は寿命が尽きて終わるが、大本の命はあり続けることを実感し、死の恐怖から解放されたのでした。
しかし、それはあくまでウスペンスキーの場合と同じく、所謂変性意識状態にあって感じられたものなのです。もっと言えば私の目はまだ黒かったのですi つまり、"死んでみなきゃ分からん"という事情に変わりは無いのですi
それにこの事は、思われた自己がそのまま生き続けるということを意味している訳では無いのです。
短絡的な不死信仰には、際限の無い自我拡張の思いというものを感じてなりません。
それは、ともすると生や死について見えにくく、向き合えなくさせてしまうと思います。
一つ私個人に関して言えることは、それで死の問題、死の恐怖に向き合える土壌は出来たということです。
「人間は死んでオシマイ」、あるいは「死んでも死なない」からといって、たった一度の人生(不死だろうと、何回生まれ変わろうとそうだろう)、アカの他人の信仰に依存し、丸投げして疎かにしていい理由など無いはずです。
自分自身に向き合うことから、生のことも死のことも向き合える道が開かれるのでしょう。


コメント
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