私の精神的な歩みの中で、特定の導師的存在との関わりというのは、ほとんど無かったのです。
しかし、導師は必要だと私も思います。というより、そういうもの無くして歩みようが無いと言ってもいいでしょう。
自覚の有る無しに拘わらず、何らかの導きが有るから、その道を歩まされているのです。
ラマナ.マハルシは常々、"本当の導師は、あなたの内に居る...真我が導師である"と言っていましたが、私の場合、その導師の姿は、見ることが出来なかった..."見えざる導師"ということになりそうです。
所謂(見えてる)導師というものが、あなたにとって本物かどうか、あなたを本当に確信に導くものかどうかは分からないし、とんだ、ニセモノだった、ということもあり得るのと同じように、この見えざる導きに則った生き方にも落とし穴も付いて回るものです。
ただ、その実害はずっと少ないということは言えるでしょう。精々ずっと妄想し続けることくらいでしょう。
私はいつも平然とこの見えざる導きについて、そういう例えば、示現のようなものがあって当たり前のように言っていますが、フツーの人に置かれましては、そんなものホントかどうか、分かりゃしないのが、どうも当たり前のことのようなのです(笑)
そうです...だから別に信じる必要など無いのです。他人の話など勿論そうですが、果たして自分が何となく感じている、この守護霊みたいなのは、ホントにそうなのか、ヘンな霊にたぶらかされているのか?"と迷っているのなら、無理に信じないでスルーするに限りますi
いたずらに中途半端な気持ちで深入りすると、先に触れたような妄想にハマることになるのです。
(私がいつも書いているのは、ヘンな人間の一つのサンプルに過ぎないということをくれぐれもお忘れずに...)
しかし、そうして疑いがもたげつつも、"どうしても、こうしても打ち消そうとしても、何だか信じたくなってしまう、惹かれてしょうがないものを感じてしまう"としたら...
これがミソなのですi こうなると、アカの他人の私の話でも"そうかなあ..."というものが過ってこないでしょうか?(笑)
見えざる導師というのは、内なる導師でもあり、自己信頼、真我的なものと切り離せないものなのです。これは分かる人には自明のことです。
そこには"守護霊とは何ぞや、その正体は?"、"自我でない、真我を見極めましょう"みたいな他人行儀な詮索的態度は止揚されてしまうのです。(見極めも大切には違いないですよ)
そこに信頼、導きというものがある...それは何がそうさせるかというと、いつも言うように"愛、平安"...それに尽きますi
それ無しに"信じる"、"信じられる"と言うことは無いのですi
このように、"理屈、思惑を超えて"、ということが取りも直さず"思いを越えたものに導かれる"ことです。
そして、自己信頼というものがありながらも、自分を超えた絶対他者が臨在してきます。
導師という場合、この他者性というものを指して言われるべきものでしょう。そこにイニシエーション、明け渡しというものがあるのです。
"見えないものが、そういうものになり得るのか?"という疑問もあるかと思いますが、私はむしろ"見えないからこそあり得るものだi"と言いたいです。
これは"見えてる"導師との関係でもおそらく同じでしょう。私は大調和協会の命位様と交流していた時、それに近いことがありましたが、相対していた大調和協会の命位様が消えてしまったような感覚を覚えたことがありました。
こう考えると、そこには絶対他者しか無いようにも、私しか無いようにも感じられます。二つあっても一つになってしまう...
まあ、こういうことは理屈では伝わりませんが、"愛、平安"、"自分の思いが超えられてしまうこと"に私は導かれた次第なのです。
そういうものを感じる人は放っておいても導かれるものですね。
それが見えざる導きというものでしょう...。
しかし、導師は必要だと私も思います。というより、そういうもの無くして歩みようが無いと言ってもいいでしょう。
自覚の有る無しに拘わらず、何らかの導きが有るから、その道を歩まされているのです。
ラマナ.マハルシは常々、"本当の導師は、あなたの内に居る...真我が導師である"と言っていましたが、私の場合、その導師の姿は、見ることが出来なかった..."見えざる導師"ということになりそうです。
所謂(見えてる)導師というものが、あなたにとって本物かどうか、あなたを本当に確信に導くものかどうかは分からないし、とんだ、ニセモノだった、ということもあり得るのと同じように、この見えざる導きに則った生き方にも落とし穴も付いて回るものです。
ただ、その実害はずっと少ないということは言えるでしょう。精々ずっと妄想し続けることくらいでしょう。
私はいつも平然とこの見えざる導きについて、そういう例えば、示現のようなものがあって当たり前のように言っていますが、フツーの人に置かれましては、そんなものホントかどうか、分かりゃしないのが、どうも当たり前のことのようなのです(笑)
そうです...だから別に信じる必要など無いのです。他人の話など勿論そうですが、果たして自分が何となく感じている、この守護霊みたいなのは、ホントにそうなのか、ヘンな霊にたぶらかされているのか?"と迷っているのなら、無理に信じないでスルーするに限りますi
いたずらに中途半端な気持ちで深入りすると、先に触れたような妄想にハマることになるのです。
(私がいつも書いているのは、ヘンな人間の一つのサンプルに過ぎないということをくれぐれもお忘れずに...)
しかし、そうして疑いがもたげつつも、"どうしても、こうしても打ち消そうとしても、何だか信じたくなってしまう、惹かれてしょうがないものを感じてしまう"としたら...
これがミソなのですi こうなると、アカの他人の私の話でも"そうかなあ..."というものが過ってこないでしょうか?(笑)
見えざる導師というのは、内なる導師でもあり、自己信頼、真我的なものと切り離せないものなのです。これは分かる人には自明のことです。
そこには"守護霊とは何ぞや、その正体は?"、"自我でない、真我を見極めましょう"みたいな他人行儀な詮索的態度は止揚されてしまうのです。(見極めも大切には違いないですよ)
そこに信頼、導きというものがある...それは何がそうさせるかというと、いつも言うように"愛、平安"...それに尽きますi
それ無しに"信じる"、"信じられる"と言うことは無いのですi
このように、"理屈、思惑を超えて"、ということが取りも直さず"思いを越えたものに導かれる"ことです。
そして、自己信頼というものがありながらも、自分を超えた絶対他者が臨在してきます。
導師という場合、この他者性というものを指して言われるべきものでしょう。そこにイニシエーション、明け渡しというものがあるのです。
"見えないものが、そういうものになり得るのか?"という疑問もあるかと思いますが、私はむしろ"見えないからこそあり得るものだi"と言いたいです。
これは"見えてる"導師との関係でもおそらく同じでしょう。私は大調和協会の命位様と交流していた時、それに近いことがありましたが、相対していた大調和協会の命位様が消えてしまったような感覚を覚えたことがありました。
こう考えると、そこには絶対他者しか無いようにも、私しか無いようにも感じられます。二つあっても一つになってしまう...
まあ、こういうことは理屈では伝わりませんが、"愛、平安"、"自分の思いが超えられてしまうこと"に私は導かれた次第なのです。
そういうものを感じる人は放っておいても導かれるものですね。
それが見えざる導きというものでしょう...。