人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神の示現と救済

2018-04-08 12:19:07 | 
全くありふれた言い方ですが、私は神に、神的なものによって救われているのです。
そのもの無しに私はどうなっていたか分からない...私の人生はそのもの抜きではあり得ない...いや、この私自身も存在してなど居ないでしょう。
悩み多き日々...自分の思いに囚われ、その重圧に押し潰されそうになった時は、"この自分など無ければいいんだ"と思ったこともあります。
ところが、その自分という思い、意識というものが飛びそうになり、本当に無くなりそうになれば、自分が消えて行くという言い様のない、恐怖に襲われたこともあります。
人は実に自分の都合で苦境に陥るものですが、それらは本当に自分を超えたものによって救われたのです。
"救われる"ということはある意味では、本当の自分、本来あるべき自分を取り戻すことかと思われます。
ところが、本当の自分とは何かということは実は分かりません。ただ、安心といったものと共にそーゆー風に感じられるだけで言っているのです。
この自分だけからは、本当の自分のことは分からないのです。
私が私自身である時(そのように感じている時)、私は全く他の何ものからも自由だし、他におもねることもなく、他には代えることの出来ない、独一的なもの、一人格的なものを感じています。
こういうことは、非二元論者からは、個我、偽我として幻想とされてしまうようですが、幻想につながるものとは、実感というものを伴わない、否定出来ないような、確信的な感受を持たないものに着せられるものでしょう。
これを裏返せば、個我性が超えられてしまう、という実感もあり得ると言えるのです。
では、この個我、人格というものは、有るのか、無いのかどっちかに帰されなければならないものなのでしょうか?
この問題には、真に無くてはならないもの、それ無くしてすべてが立ち行かなくものが蔑ろにされていると感じざるを得ません。
本当に神的なものの有り様を歪めているのは、我々の人格の深みからのものでない、表層的思念に取り巻かれた宗教やスピ界なのかも分かりません。
ベルジャーエフは「人間が人間らしいのは、人間が神的なものを内に有しているからである」と言い、確か「神は人間よりも人格的である」とも言っていたでしょうか...神が個的なものを通して表わされたものが、独一無二の人格というものなのでしょう。
私がある事を"真である"と実感出来るのも、この私を超えた神的なあるものが内奥に生きているからであり、それ無しに寸時も私として生きては行けないのです。
実に神的なものを置いて真なるものは無いと言ってもいいのです。
神について様々な論議があり、短絡的な実体論で語られたり、唯心論に帰されたり、又有神論、無神論という論議自体からしても、如何に神的なものとズレを来していることでしょう。
これらは先の人間人格についての論議がそうであるように、我々は、"神というものは我々の思いを超えたもの"という認識から遠い、ということを物語っているのでしょう。
この世界は、一人一人の内に神的なものが生きていない、つながっていない、そこからすべてが立ち行かなくなってしまっていることを如実に示されているのです。
されど、神は望んだ者には臨まれる...いやその共々が神の示現なのでしょう。
神と共に真なるものが明らかになる...救いとはこの事を離れては無い...神の示現は我々人間を明らかにし、救いをもたらすでしょう。
神は一人一人の具体的な個を通して現れる...具体的な個にこそ、抽象的でない、普遍的な世界も開かれるでしょう。
神は真に私にとっても、世界にとっても救世主と言わずにおれません。




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