私はね...そんじゃそこらの人間とはワケが違うんです。特別な人間なんです。
そりゃそうでしょ...誰だって自分と同じ人間などこの世に一人として居ないんですから...
いちいち言わんでも分かる...エゴってものがなんで我々に付いて回るかってことも...
そういうことに気付いてりゃいいのです。気付けない、気付こうとしない、認めようとしない人たちがワイワイ、"オレがー..." とか他に向けてやっているんです。
自分が一番正しいと思っているからです。だけど...心底正しいとは思ってないでしょう。
内心は"ホントに正しいのか、間違っているんじゃないか?"と戦々恐々...心が揺れ動いてたりしているのです。
だから...他にアッピールして、認めてもらわないとならないんです。
それには、自分の正統性を際立たせるために、又その所業を隠蔽するために、間違っている、悪いものとされるものを担ぎ出したりします。
異教徒とか異端とかフリーメーソンとかレプティリアンとか...カルト宗教とかが盛んにそれらをスケープゴートにしていた通りですね。
これは分かりやすい例ですが、そんなあからさまなカルトでなくとも、"我々は宗教ではありません。神秘主義、オカルトの類とも違うんです"、何てことを外に向けて主張しているところもあります。スブドとか...
そう言っている人に、"じゃ、宗教ってなんですか?、神秘主義とは?、オカルトとは?" と質問してもおそらく誰もマトモに答えられないでしょう。
要するにイイカゲンな理解で、イイカゲンなことを言っているだけなのです。
ただ"我々は皆さんが抱くであろうようなアヤシイ団体でもなく(これはアヤシイ実例がきっとあるんです)、エヘン...そんじゃそこらのものと違う、特別なことをやっている団体なんです"ということを言いたいのでしょう。
自分たちが如何なる団体であるかと主張するのは自由でしょうが、"宗教云々..."というのは、それを見聞きした人間がそこで受けた印象から判断することでしょう。
その内実はともかく、世の中にそのようなイメージを抱かせるもの(権威的なものへのトラワレとか、カルト的見解の蔓延とか)があれば、どうしたってそのような判断も出てきてしまうのです。
そして、"我々はOOでない"という、正統化に赴かせる思念がはびこると、中々その団体に内包する、上記のような問題が存していても気付くことが出来なくなります。
この例のように、例えば自分はずっと宗教的なものに依存し続けているにも拘わらず、外に向けて"宗教依存はよくないですよ、自立出来なくなりますよ"などと他人事のように発信している向きもあります。(大体において、こうした発信というものは、自分を自分以外の宗教なり、思想なりに依存、同化させているものですが)きっと巷で言われていることを嗅ぎとって、自分は正しいことをしていると思われたいのでしょう。
私は...別に宗教依存みたいなことがあってもいいと思いますよ。それ自体悪いってもんじゃなく、生きたものに連なることが大事なことだと思います。
人間は自分が思っているよりずっと弱いものです。
エゴだってある。自分が正しいと思うことだって...これは生存本能みたいなものです。当たり前のことなのです。
殊更特別なこと言わなくても、その事に気付いていたらいいんじゃないでしょうか?
精神的気付き、目覚めとは、その自分の弱さ、無力さに対してのものに尽きると言っても過言ではないでしょう。
中々気付けない?...気付こうと意識すれば気付けます。
実は正しそうな人も、強がりな人も内心は気付いているはず...だから...エヘン、とイロイロ宣っているのでしょう。
言わなくてもいいことを言うから、私もつい言わなくてもいいことを言ってしまう次第なのです...ん。
そうして、私のような狡猾な人間に反面教師として、それらの善い、悪い鏡を見て気付かせてもらう材料を提供して頂くことになるのです。
なんじゃ、かんじゃと言ってこの宗教、スピ界隈ってーのは、学びの宝庫じゃありませんかi
感謝に絶えません。これは皮肉でない...かも...
そりゃそうでしょ...誰だって自分と同じ人間などこの世に一人として居ないんですから...
いちいち言わんでも分かる...エゴってものがなんで我々に付いて回るかってことも...
そういうことに気付いてりゃいいのです。気付けない、気付こうとしない、認めようとしない人たちがワイワイ、"オレがー..." とか他に向けてやっているんです。
自分が一番正しいと思っているからです。だけど...心底正しいとは思ってないでしょう。
内心は"ホントに正しいのか、間違っているんじゃないか?"と戦々恐々...心が揺れ動いてたりしているのです。
だから...他にアッピールして、認めてもらわないとならないんです。
それには、自分の正統性を際立たせるために、又その所業を隠蔽するために、間違っている、悪いものとされるものを担ぎ出したりします。
異教徒とか異端とかフリーメーソンとかレプティリアンとか...カルト宗教とかが盛んにそれらをスケープゴートにしていた通りですね。
これは分かりやすい例ですが、そんなあからさまなカルトでなくとも、"我々は宗教ではありません。神秘主義、オカルトの類とも違うんです"、何てことを外に向けて主張しているところもあります。スブドとか...
そう言っている人に、"じゃ、宗教ってなんですか?、神秘主義とは?、オカルトとは?" と質問してもおそらく誰もマトモに答えられないでしょう。
要するにイイカゲンな理解で、イイカゲンなことを言っているだけなのです。
ただ"我々は皆さんが抱くであろうようなアヤシイ団体でもなく(これはアヤシイ実例がきっとあるんです)、エヘン...そんじゃそこらのものと違う、特別なことをやっている団体なんです"ということを言いたいのでしょう。
自分たちが如何なる団体であるかと主張するのは自由でしょうが、"宗教云々..."というのは、それを見聞きした人間がそこで受けた印象から判断することでしょう。
その内実はともかく、世の中にそのようなイメージを抱かせるもの(権威的なものへのトラワレとか、カルト的見解の蔓延とか)があれば、どうしたってそのような判断も出てきてしまうのです。
そして、"我々はOOでない"という、正統化に赴かせる思念がはびこると、中々その団体に内包する、上記のような問題が存していても気付くことが出来なくなります。
この例のように、例えば自分はずっと宗教的なものに依存し続けているにも拘わらず、外に向けて"宗教依存はよくないですよ、自立出来なくなりますよ"などと他人事のように発信している向きもあります。(大体において、こうした発信というものは、自分を自分以外の宗教なり、思想なりに依存、同化させているものですが)きっと巷で言われていることを嗅ぎとって、自分は正しいことをしていると思われたいのでしょう。
私は...別に宗教依存みたいなことがあってもいいと思いますよ。それ自体悪いってもんじゃなく、生きたものに連なることが大事なことだと思います。
人間は自分が思っているよりずっと弱いものです。
エゴだってある。自分が正しいと思うことだって...これは生存本能みたいなものです。当たり前のことなのです。
殊更特別なこと言わなくても、その事に気付いていたらいいんじゃないでしょうか?
精神的気付き、目覚めとは、その自分の弱さ、無力さに対してのものに尽きると言っても過言ではないでしょう。
中々気付けない?...気付こうと意識すれば気付けます。
実は正しそうな人も、強がりな人も内心は気付いているはず...だから...エヘン、とイロイロ宣っているのでしょう。
言わなくてもいいことを言うから、私もつい言わなくてもいいことを言ってしまう次第なのです...ん。
そうして、私のような狡猾な人間に反面教師として、それらの善い、悪い鏡を見て気付かせてもらう材料を提供して頂くことになるのです。
なんじゃ、かんじゃと言ってこの宗教、スピ界隈ってーのは、学びの宝庫じゃありませんかi
感謝に絶えません。これは皮肉でない...かも...