人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

愛と真理

2018-04-09 17:28:43 | 
人は誰でもその人なりに真理というものを求めています。
物心がついて自然と、もっと"イロイロ知りたい"という欲求が芽生えてくる訳です。
そして、一角のことが分かっただけで、真理を究めたつもりになったりするのでしょう?
私の場合、この真理探求欲が旺盛になったのは、御多聞にもれず?精神的な道に関心が向くようになってからです。
私が自らの"ルネッサンスの時代"と規定している、昭和53年頃から二年ばかしの間は、毎日のように新たな学びを求め、又それに預かっていたことが思い出されます。
ま、改めて考えてみると別にどおってことないことだったりするのですが(笑)
そうですね。"この物理的な世界には見えない霊の世界とやらがある...有りと有るものは波動である、粒子である...世界は原因と結果によって成り立っている...世界は意識が作り出している...というような真理が分かったからといって...
お釈迦様じゃあるまいし、そうゆうことを身を以て悟り、目の当たりにする訳でもないし、そうらしいことを分かったつもりになるだけでは無いのか? 仮に本当にそんなことが分かったからといって、どーなると言うのかi 世界は自分の意のままになるとでも? その分かったという普遍、不変の真理と自分と何の関係があると言うのか?" 
かように、真理を知る、分かることに一体、何の意味があるというのでしょうか?
私の場合、上記した頃から一年くらい経って、その真理の探求と結び付いて、あのジンジンとした内的な感覚、それと共に意識が高揚してくるのを覚え始めました。
これが実に重要なことかと思われます。
その感覚があるということは、又愛、平安と共にあるということでもあるのです。
それからは、例えば読書の傾向などでも、単に頭の表層を撫でるばかりの知識を追い求めるようなことから、本当に魂の琴線に触れられる、共感出来るようなものに焦点が向かうようになりました。
実に真理を求めることと愛、平安を求めることは一つのことだということが、当時はまだその事を自覚していた訳では無いにせよ、覚えられていたのです。
その"感じ"は私の深部から来るものであり、そこでは愛と真理は一つのものなのです。
これはあのすべてを照らすかのような、私の内奥にある原初的理性とも通う、"照明の光"の別の面が、愛、平安に包まれることでもあることから導かれるのです。
愛に対応する感性も真理に対応する知性も、この相対世界では別々に働いているものですが、それらは人の内奥では分けることが出来ないものなのではないでしょうか?
真理を追究する..."その意味は?"と、意味を追究して行く...これ自体が知性が愛、平安と切り離されている様を表していると言えるでしょう。愛、平安を求めるのに意味、理由など無いものだから...
我々はそこに喜び、平安があるから真理を求めずにおれないのです。
そうでなければ真理の探求というものは何と無味乾燥で、退屈極まりないものとなることでしょう。いや、愛と切り離された我々の知性は、歯止めが効かずに暴走して、とっくの昔に人類は業火に包まれ滅んでしまったかもしれません。
愛なるものと真理なるものとは一つのもの...それは取りも直さず神的なるもののことでしょう。
そのものが顕わになると共に、我々、知的動物に隠された感性もありやかになるでしょう...。




コメント
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