五井先生という人は、私と誕生日が1日しか違ってなくて、初めてお目にかかったのも昭和52年の先生の誕生祝賀会でのことで、お顔を見るなり、何とも懐かしい気持ちが込み上げてきて、思わず涙がこぼれてくるなど、少なからず縁というものを感じずにおれないものがあったのです。
それから私の精神的歩みには、ここで書いているように紆余曲折があって、先生のことが念頭から離れてしまったこともあったのですが、又こうして改めて書かされているんだから、やはりこれは縁のなさしめることなのかな、などと感じています。
6年くらい前、フト思い立ち、数十年経って、宗教、精神世界を取り巻く状況も大分変化してきた中、五井先生はどのように理解され、受け入れられているのか知りたくなって、白光の正規の団体でない、五井先生派(原点の教えに則る)?ともいうべき、小さい集まりに関わったことがあります。
しっかし、これが勿論そのすべての人がそうだという訳ではないでしょうが、情けなくなるような旧態依然とした、依存信仰を見せ付けられることになったのです。
(こういう風に書いていくと、"他を悪し様に言うべきでない" というものが過るのですが、どっかで"構わん、構わんi ケチョン、ケチョンでいいじゃないかi" という促しも感じてくるのです)
"先生の残した教義「人間と真実の生き方」、「消えてゆく姿で世界平和の祈り」だけに従っているだけでいい"という原理主義的なものがある一方、その原理主義的なものにトラワレたまま、先生がけっして言わないような未来予言、隠謀論、宇宙O史などを付け加え、二重にトラワレ続けているものもあります。
後者について私は、「あー、そういうのは消えてゆく姿でしょう...」とキッパリ言ったこともあり、私の居る前では、そういうことには触れることは無かったのですが、私が"もう、ええわいi"と、そこを離れると、何かの規制が外れた様に、どんどん脱線ぶりがエスカレートしていったようなのです。
ここで私が言わんとしているのは、そうした原理主義的なものと、脱線路線とどっちが正しいか、というようなことではありませんi
どっちも消えてゆく姿じゃないか、ということです。
単純に"そういうのは間違ってますi"とは、決めつけられないですが、少なくとも"消えてゆく姿"というものに照らされるべきもの、とは言えないでしょうか?
ある団体にしか通用しない、すでに形をなした教え、行法...それらはすべて過渡的なもの、プロセスとしてあるもの、と言わざるを得ないでしょう。これは先生の後継路線に現れた一連の"行"についても言えることです。あっちにはそういう理解もなされているようではありますが...
有るのか無いのか分からないオカルト的教説といい、トラワレた思いこそが消えてゆく姿であるハズなのに、いつまでもそうならないのは、空念仏のようになっているからでしょう。
いいや...これは、そもそもこういう、"祈っていれば、行じていれば、教えにつながっていれば、いい" と、安直に受け取られかねない生き方を残した先生が間違っているんじゃないのか? 大衆に向けての宗教というもののダメさ加減というものは、ここに集約されているではないか?
と、こんなこと書いてて、バチ当たりにならないか、というものが過ってきますが、どっかで"構わん、構わんi ケチョン、ケチョンでいいじゃないかi"というものが...そして...
"あーだ、こーだ、ケチョン、ケチョン...みーんな消えてゆく姿だよi" というものも...
そうだったのですi 私はあの方便的教え「消えてゆく姿で世界平和の祈り」に触れたことがきっかけで、消えないものに導かれたのです。いまだその途上にあるのですが...
先生に初めてお目にかかった当時、私は入信していた教団への信仰もグラついており、何処へ向かっていいのか分からない状態の中で、その縁に捉えられたのでした。
先生が残された道には、表面的な消えてゆく姿的なものの中に、"消えてゆかない"、永遠なるものとつながるものも散りばめられているのを感じています。
そういう思いが強いからこそ、その無理解、歪曲的な在り方に対して、何かと言いたくなってしまうのでしょう。
それでも..."いいよ、いいよ、分かっていればいい"という声が聞こえてきそうです。
五井先生という人はそういう人なのでしょう。
それから私の精神的歩みには、ここで書いているように紆余曲折があって、先生のことが念頭から離れてしまったこともあったのですが、又こうして改めて書かされているんだから、やはりこれは縁のなさしめることなのかな、などと感じています。
6年くらい前、フト思い立ち、数十年経って、宗教、精神世界を取り巻く状況も大分変化してきた中、五井先生はどのように理解され、受け入れられているのか知りたくなって、白光の正規の団体でない、五井先生派(原点の教えに則る)?ともいうべき、小さい集まりに関わったことがあります。
しっかし、これが勿論そのすべての人がそうだという訳ではないでしょうが、情けなくなるような旧態依然とした、依存信仰を見せ付けられることになったのです。
(こういう風に書いていくと、"他を悪し様に言うべきでない" というものが過るのですが、どっかで"構わん、構わんi ケチョン、ケチョンでいいじゃないかi" という促しも感じてくるのです)
"先生の残した教義「人間と真実の生き方」、「消えてゆく姿で世界平和の祈り」だけに従っているだけでいい"という原理主義的なものがある一方、その原理主義的なものにトラワレたまま、先生がけっして言わないような未来予言、隠謀論、宇宙O史などを付け加え、二重にトラワレ続けているものもあります。
後者について私は、「あー、そういうのは消えてゆく姿でしょう...」とキッパリ言ったこともあり、私の居る前では、そういうことには触れることは無かったのですが、私が"もう、ええわいi"と、そこを離れると、何かの規制が外れた様に、どんどん脱線ぶりがエスカレートしていったようなのです。
ここで私が言わんとしているのは、そうした原理主義的なものと、脱線路線とどっちが正しいか、というようなことではありませんi
どっちも消えてゆく姿じゃないか、ということです。
単純に"そういうのは間違ってますi"とは、決めつけられないですが、少なくとも"消えてゆく姿"というものに照らされるべきもの、とは言えないでしょうか?
ある団体にしか通用しない、すでに形をなした教え、行法...それらはすべて過渡的なもの、プロセスとしてあるもの、と言わざるを得ないでしょう。これは先生の後継路線に現れた一連の"行"についても言えることです。あっちにはそういう理解もなされているようではありますが...
有るのか無いのか分からないオカルト的教説といい、トラワレた思いこそが消えてゆく姿であるハズなのに、いつまでもそうならないのは、空念仏のようになっているからでしょう。
いいや...これは、そもそもこういう、"祈っていれば、行じていれば、教えにつながっていれば、いい" と、安直に受け取られかねない生き方を残した先生が間違っているんじゃないのか? 大衆に向けての宗教というもののダメさ加減というものは、ここに集約されているではないか?
と、こんなこと書いてて、バチ当たりにならないか、というものが過ってきますが、どっかで"構わん、構わんi ケチョン、ケチョンでいいじゃないかi"というものが...そして...
"あーだ、こーだ、ケチョン、ケチョン...みーんな消えてゆく姿だよi" というものも...
そうだったのですi 私はあの方便的教え「消えてゆく姿で世界平和の祈り」に触れたことがきっかけで、消えないものに導かれたのです。いまだその途上にあるのですが...
先生に初めてお目にかかった当時、私は入信していた教団への信仰もグラついており、何処へ向かっていいのか分からない状態の中で、その縁に捉えられたのでした。
先生が残された道には、表面的な消えてゆく姿的なものの中に、"消えてゆかない"、永遠なるものとつながるものも散りばめられているのを感じています。
そういう思いが強いからこそ、その無理解、歪曲的な在り方に対して、何かと言いたくなってしまうのでしょう。
それでも..."いいよ、いいよ、分かっていればいい"という声が聞こえてきそうです。
五井先生という人はそういう人なのでしょう。