"精神的な道を求めて幾十年...信仰も修行も重ね来て、そろそろと人間の真実の姿、神の子に近づいて来たよな、天国の扉も開きかけて来たよな気もしてきた、いやしてこなきゃオカシイのだが、その門に居並ぶように立ちふさがる、幾つもの黒い影...あれは闇の勢力フリーメーソンかイリュミナティか...はた又国際金融機関の黒幕か、ユダヤ人かコミュニストか、正統なるOO先生以外の他宗教の信者か、精肉業者か精糖業者かマックかコークか...あっちが消えたらこっちににょきにょき...あれが消えたと思いきや、いつの間にかこんなにも周りを包囲されていた..."
私はもう結構長いこと精神的な道に関わってきましたが、つくづく感じるのは宗教、スピ界隈にはあらゆるトラワレごとで溢れかえって、まるでトラワレ製造工場みたいだ、ということです。
それでいて当人たちは結構救われていると思っているか、思おうとしてしているようなのです。"救われなきゃいけないんだi"とこれ又トラワレているのです。
何が真我で何がエゴだとか、居るのかどうかも分からない、サタンとか邪霊だとかに何にもトラワレを持たない、"救われない一般人"の方がどれだけ精神的に健全で、救われているように見えるでしょうか?
こういう様態に根強く横たわっているのは、"これが絶対に正しいという思い"でしょう。
そして正しくない、悪しき思いを否定しようとします。しかし、否定しようとすれば、するほどそれは形を変えて転移し、益々増殖して行きます。そうです、ガン細胞のように...
仮想サタンである敵は、幾つもあるように見えますが、実は同じところしか出てこないのです。
それは自分の思い、そうエゴです。(あまりエゴだ、エゴだと言うと、エゴ蔓延状態のスピ界みたいになりそうなのですが...そしてこういうことを言っている人間てーのは、大概自分のことは棚に挙げてるような物言いなのですが、多分自分のことだからそう言えるんだと思います)
エゴはいつも自分は正しく、上に居なければ気が済みません。
こういうのは分かりやすいですが、もっと高度な方になってくる(高いレベルのエゴ? スーパーエゴ? なりたいか?)と、外部に投影したエゴじゃなくて、エゴである自分自身を無きものにしようとします。
そして、色々トライするなどして、"ついに自我を克服しました、私はもう自我ではなく、真我に目覚めたのですi"と思うか、思おうとするかして、真我に成り済ますのでしょう。
これがエゴが思い描いている、神になる道のゴールなのかもしれません。
しかし、そうなることで、神と共なる真我の道は永遠に断たれるかもしれないのです。
自分が神と一つになるか、どうかなど、自分からは何も始められないのです。
同じように自分で自分のエゴをどうとかすることも出来ません。
上記したように、それは"終わりなき戦い"みたいなものだということが分かるでしょう。
ただ、そのことに気付いていることが大きいことなのです。
これだけでどれだけ戦いに纏わる重しから解放されることかi
いや、それすらも出来ないことかもしれません。エゴというのはエゴを絶対認めたくないものだから...
人一倍エゴの強い私が気付けるようになったのは、絶対他者として現臨が臨んだからです。このこと自体が、私、自我の事から思いが離れるということなのです。
自分では出来なくとも、あの"照らされている感じ"というのは、感じられるのではないでしょうか?
感じられる、というのは出来る、出来ないということじゃないのです。
もう、生きることは出来ない、と思ってたって生きているじゃありませんか?
私はもう結構長いこと精神的な道に関わってきましたが、つくづく感じるのは宗教、スピ界隈にはあらゆるトラワレごとで溢れかえって、まるでトラワレ製造工場みたいだ、ということです。
それでいて当人たちは結構救われていると思っているか、思おうとしてしているようなのです。"救われなきゃいけないんだi"とこれ又トラワレているのです。
何が真我で何がエゴだとか、居るのかどうかも分からない、サタンとか邪霊だとかに何にもトラワレを持たない、"救われない一般人"の方がどれだけ精神的に健全で、救われているように見えるでしょうか?
こういう様態に根強く横たわっているのは、"これが絶対に正しいという思い"でしょう。
そして正しくない、悪しき思いを否定しようとします。しかし、否定しようとすれば、するほどそれは形を変えて転移し、益々増殖して行きます。そうです、ガン細胞のように...
仮想サタンである敵は、幾つもあるように見えますが、実は同じところしか出てこないのです。
それは自分の思い、そうエゴです。(あまりエゴだ、エゴだと言うと、エゴ蔓延状態のスピ界みたいになりそうなのですが...そしてこういうことを言っている人間てーのは、大概自分のことは棚に挙げてるような物言いなのですが、多分自分のことだからそう言えるんだと思います)
エゴはいつも自分は正しく、上に居なければ気が済みません。
こういうのは分かりやすいですが、もっと高度な方になってくる(高いレベルのエゴ? スーパーエゴ? なりたいか?)と、外部に投影したエゴじゃなくて、エゴである自分自身を無きものにしようとします。
そして、色々トライするなどして、"ついに自我を克服しました、私はもう自我ではなく、真我に目覚めたのですi"と思うか、思おうとするかして、真我に成り済ますのでしょう。
これがエゴが思い描いている、神になる道のゴールなのかもしれません。
しかし、そうなることで、神と共なる真我の道は永遠に断たれるかもしれないのです。
自分が神と一つになるか、どうかなど、自分からは何も始められないのです。
同じように自分で自分のエゴをどうとかすることも出来ません。
上記したように、それは"終わりなき戦い"みたいなものだということが分かるでしょう。
ただ、そのことに気付いていることが大きいことなのです。
これだけでどれだけ戦いに纏わる重しから解放されることかi
いや、それすらも出来ないことかもしれません。エゴというのはエゴを絶対認めたくないものだから...
人一倍エゴの強い私が気付けるようになったのは、絶対他者として現臨が臨んだからです。このこと自体が、私、自我の事から思いが離れるということなのです。
自分では出来なくとも、あの"照らされている感じ"というのは、感じられるのではないでしょうか?
感じられる、というのは出来る、出来ないということじゃないのです。
もう、生きることは出来ない、と思ってたって生きているじゃありませんか?