人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

本当の最善の道?

2019-10-20 11:56:31 | 求道、探究
今、ある宗教的、スピ的な教えに関心が向いているとして、頭の中に"もっと素晴らしい、役に立つ教えがあるかもしれない..."という思いがもたげてくることがあるかもしれません。
こういうことは結構、人生最大の善き出会いを取り逃がすことになるとも限りません。
現代では、そういう情報にアクセスしやすく、広がっているので、見つけやすい反面、迷わされることも多いのでしょう。
大体は、色々頭の中で思い巡らしているうち、自分が何に関心があるのか分からなくなってしまうものです。
考えているということは、そういうことだからです。どのくらい時間とエネルギーの無駄をしているか分かりません。
最初にあることに関心が向いている、"好きになってしまった!"、ということが起きているんだから、そこに落ち着いていりゃいいものを...私も結構浮気性なもんで...
しかし...そうして他の方に目が移り、ホントは、"そっちの方がいいi"と感じているのに、"いや、他に心を奪われてはイカンi"という思いでそちらを打ち消してしまい、やはり取り逃がしてしまうこともあるのです。
こういうことというのは、自分が選ぶ、取ろう、掴もうとしている限り、どうしたって自分の思いにおもねるしかないというところからくるのです。
これに実益性とか世の中の評判、人間関係の付き合い、あるいは自分のただの意地みたいなのが絡んでくると、益々訳が分からなくなって、どれだけ"良縁"を逃していることでしょうか?
最善、最愛のものとは、実は言葉の綾で"これが一番i、これ以上のものは無いi"と決めつけた時にはそうでなくなるものでしょう。
そういうものに捉えられなければ絶対に(これは綾じゃない?)分からないことです。そうなった時に分かるのですi..."いや、これはまだまだなのでは?"なんてやってられる訳がありませんi
これはもう感覚的なもので、"じんじん"してこないものには、心が動かされないのだからしょうがないのですi 好きになっちゃったんだからしょうがないi...
これはほとんど物理的なことと言ってもいいのです。
その道のガイドブックみたいなので、"道を選ぶ場合のポイントは?"何てのが一応はあるんでしょうけど、もっと根本的なことを言っているのです。
先の最善のものを取り逃がすというのはあくまで、それが"見える"機縁、媒体となるものについて言ったのであり、特定の教えを介さないもっとダイレクトな"見えざる"出会いのことには触れてません。
何にせよ、自分自身に息づいている、理屈抜きに惹かれるものから離れて他の道におもねってしまう、ということから迷いが始まってくるのでしょう。

と、いうようなことを私がいつも書かされているんだから、きっと世も末なんでしょう。
私は"いや、まだまだだ"とやってたクチで、あのものを何とか捉えようとして、捉えられてしまったのです。
つくづく、人生ってのは分かりませんわ...
コメント
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