人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

祈りは念力ではない

2019-10-14 11:20:19 | 祈りと瞑想
この度の超大型台風の来襲にあたって、宗教的な人ならずとも、自身の、周囲の、中にはもっと広い地域への安寧を祈られた方も多かろうと思います。
これはごく自然な人間の感情の発露と言ってもいいでしょう。
たとえそれが"困った時の神頼み"のようなものであれ、危急な時には自然と手を合わせてしまうものでしょう。
しかし、ネットなどを見てたら中にはこんなのも散見します。
"私の祈りパワーで台風を他の地域へ逸らしてみせる..."、"有志の方に集まってもらい、共に被災地へ祈りの波動を送りましょう..."
又、祈りを主体とした宗教運動に古くから関係してるある人などは、自分たちは救われた者で、救う立場に居るのだ、などと思い上がったことを言っているのです。
こういう周囲には思念がうじゃうじゃ取り巻いているようで、関わりたくありません。
これは、祈りというものを、自分の思念でどうにかするもの、念力的なものと勘違いしているのです。
加持祈祷というのは、そういうものと結び付くものですが、祈ることと"祈り倒す"こととは違います。そこで強まってくるのは、当然思念でしかありません。
それはどこまでも、自分の力、思いに依り頼むことであり、自分の思いを越えたものにゆだねることとは真逆のことと言っていいでしょう。
人間はこのような自然災害の前ではとても無力なものです。私はこれを色々な意味で言っているのですが...
例えば、ああいうものに直面した時、そしてその甚大な被害から免れた時、"ああ、私自身、私の地域、日本国に及ばなくて良かった..."と思わないでしょうか?...正直に言おう、私の脳裏にはその時、何度もそんな思いが去来していたのです。
そうです。あなたと同じなんですi...もう細胞レベルでそういう風に刷り込まれているように...
ただ、この台風や大雨に対する危機意識というのは、昔からある程度想定されてあることです。家が突風で吹き飛ばされるか、"ここ"まで浸水が及ばない限りは...
せいぜい、一日食いっぱぐれてしまうくらいで済むだろうくらいのことは...
小学4年の昭和41年9月下旬、ちょうど今回のものと同じような進路で、大型台風が関東を直撃したことがありました。(五井先生の法力?をもってしても避けられなかったのです)
この時、特に私の居住していた、西武新宿線沿線が周囲の河川の氾濫で、甚大な水害に見舞われたことを記憶していますが、オヤジは言いました「ここは高台だから絶対大丈夫だ」と。
私はこの頃から東京山の手特有の地形というのを知り尽くしていたのです。従って我が身の無事のことなど別に祈る必要もないっちゃ、ないかも...そうですよ。
しかし...正直に言おう、だからこそというべきか、危険エリアへの大難がより少なからんことを、祈らざるを得ない気持ちにも一時ながらなったのです。これも自分のことです。私は力なんて何も無いのですから...
私は阪神大震災の時、ごく短期間ながらライフラインがことごとく断たれしまって、不安と恐怖のうちに過ごしたこともあるのです。
当時の住まいから5分も歩かないところに武庫川があり、その向こうでは壊滅的状況になっていたことも目の当たりにしています。
本当の危急な状況とは隣り合わせにある、ということの意味も肌身で知らされているのです。
自分ではよく分かりませんが、"だから"...なのでしょうi
これはあなたと私も同じなのではありませんか?
そう、そしてあなたも私もどんなに綺麗事言っていても、自分に都合のいいことしか思っていない...だから無力でしかないというのですi
どこまでが自分の思いで、どこまでが無心のものなのか?...まあ、自分で無心になれると思っているうちはナニだろうけど...そういうことも何もかも自分の思いを超えたものに向ける...それが祈りというものじゃないですか?
すると、いつの間にか、どっかであの御方とつながる...かもしれない...
神に祈ったって、神が願いを叶えてくれるか、どうかは知りません。けれど、祈ることで、神的なものと共にあることで、たとえ嵐が吹き荒れるとも、平安に導かれることは知らされています。
それは全くもって我々の思いを超えてハタラクものなのです。
我々の念でなく、神の御愛のいや増さんことを...
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする