「火打石においてそこに火のあるように、人の心においてはそこに神との交わりを慕わしく思う慕情がある。...神と人と接触するようになるか、あるいは神の霊によって触れられたりすると、ただちに彼の中にあるその願望は、火打石が鉄によって打たれたときのように、急に炎となるのである」(サンダー.シング「人はみな神に帰る」おとづれ社刊)
私がしばしば言っている、"意識を神的なものに向ければ、向いちゃったら"ぱっi"..."と現臨に触れられるようなことで、そうした即応性はどこから来るのかと言うと、すでに私が考えたり、イメージしたりする以前に、先天的に神的なものが我がうちにある、という感覚からだと思います。
特別神を信じようとしなくとも、そういうものは"ここ"にお在すのです。"既にあるもの"だから意識が向けられる訳です。
これから神サマをどっかから持ち出すようなことは実にバカげたことなのです。神は出しモノじゃあるまいし...
と言っても、考えたりすることで頭が一杯の人には、いきなり"ぱっ!"という訳にも行かないだろうから、"信じること"やイメージを借りる必要もあるでしょう。
しかし、それはあくまで仮のものであり、借りるものであるという認識も必要でしょう。
神的なものとは後天的に、人為的に作り出す観念的イメージのようなものでなく"原像"なのです。
古来から東西の神秘主義で言い伝えられているように、人間自体が神の似姿、原像としてあるのでしょう。
いつも言うように、何事においても意識の有り様ということが重要なことですが、求道、修行者には、今の自分の状態からだんだん修行を重ねて、進歩して行って神に近づいてゆく、ということに意識が傾き勝ちな人も見受けられます。
言葉の綾でそういう風に言う場合もあるでしょうが、それが思いのクセになると、"自分が"、"自分で"という線に傾き、だんだん神から遠く、主我性を強めて行ってしまうことにもなりかねなくなります。
原始は最も劣った段階であり、未来に進んで行くほど上の段階に行けるとされるのは、現代物質文明が作った神話にすぎないのです。
これは多くの人間が感づいているように、崩壊しつつあります。その行き着く先にある、崩壊が見えているから...
原始のことは、自分がどこから来たか、というようなことは考えたって分からないのです。
神に近づく、神に帰るということは、ある意味において進歩というより、後退でしょう。
少なくとも宗教においては、この原初的なものに帰るという理念の無いものは存在しないと言ってもいいでしょう。
何よりも主我的なものが前に出過ぎていれば、自己の帰り場、魂の安息地など見出だされないのではありませんか?
しかし、我々はもう何もかもが行き詰まり、二度と復元が困難な地点まで行き着いてしまった感もあります。
私なども、自意識が強く、いつも思考まみれになっていた人間だったのに...何で今もこういうことを書いているだけで、じんじんと来てしまうのでしょうか?
私がいつも実感されているのは、我々に神に帰る力は無くなってしまったとしても、向こうからあの御方がこちらに表れ出よう、という言葉にならない意思のようなものです。
"鶏が先か卵が先か"じゃないですが、これはやはり、私が意識を向けたら、どうとかが先にあるのではなくて、そうさせる御方がおられる、ということを感じにずにおれないものがあります。
これは、ちょいと"が"を引っ込めれば誰しもが感じられられるはずではないでしょうか? 神の原像でない、神の火花を有しない人間など居ないのだから...
人はみな神に帰る...。
私がしばしば言っている、"意識を神的なものに向ければ、向いちゃったら"ぱっi"..."と現臨に触れられるようなことで、そうした即応性はどこから来るのかと言うと、すでに私が考えたり、イメージしたりする以前に、先天的に神的なものが我がうちにある、という感覚からだと思います。
特別神を信じようとしなくとも、そういうものは"ここ"にお在すのです。"既にあるもの"だから意識が向けられる訳です。
これから神サマをどっかから持ち出すようなことは実にバカげたことなのです。神は出しモノじゃあるまいし...
と言っても、考えたりすることで頭が一杯の人には、いきなり"ぱっ!"という訳にも行かないだろうから、"信じること"やイメージを借りる必要もあるでしょう。
しかし、それはあくまで仮のものであり、借りるものであるという認識も必要でしょう。
神的なものとは後天的に、人為的に作り出す観念的イメージのようなものでなく"原像"なのです。
古来から東西の神秘主義で言い伝えられているように、人間自体が神の似姿、原像としてあるのでしょう。
いつも言うように、何事においても意識の有り様ということが重要なことですが、求道、修行者には、今の自分の状態からだんだん修行を重ねて、進歩して行って神に近づいてゆく、ということに意識が傾き勝ちな人も見受けられます。
言葉の綾でそういう風に言う場合もあるでしょうが、それが思いのクセになると、"自分が"、"自分で"という線に傾き、だんだん神から遠く、主我性を強めて行ってしまうことにもなりかねなくなります。
原始は最も劣った段階であり、未来に進んで行くほど上の段階に行けるとされるのは、現代物質文明が作った神話にすぎないのです。
これは多くの人間が感づいているように、崩壊しつつあります。その行き着く先にある、崩壊が見えているから...
原始のことは、自分がどこから来たか、というようなことは考えたって分からないのです。
神に近づく、神に帰るということは、ある意味において進歩というより、後退でしょう。
少なくとも宗教においては、この原初的なものに帰るという理念の無いものは存在しないと言ってもいいでしょう。
何よりも主我的なものが前に出過ぎていれば、自己の帰り場、魂の安息地など見出だされないのではありませんか?
しかし、我々はもう何もかもが行き詰まり、二度と復元が困難な地点まで行き着いてしまった感もあります。
私なども、自意識が強く、いつも思考まみれになっていた人間だったのに...何で今もこういうことを書いているだけで、じんじんと来てしまうのでしょうか?
私がいつも実感されているのは、我々に神に帰る力は無くなってしまったとしても、向こうからあの御方がこちらに表れ出よう、という言葉にならない意思のようなものです。
"鶏が先か卵が先か"じゃないですが、これはやはり、私が意識を向けたら、どうとかが先にあるのではなくて、そうさせる御方がおられる、ということを感じにずにおれないものがあります。
これは、ちょいと"が"を引っ込めれば誰しもが感じられられるはずではないでしょうか? 神の原像でない、神の火花を有しない人間など居ないのだから...
人はみな神に帰る...。