スピ界隈に、子宮系スピなるものがあるのは、数年前から聞いておりましたが、これが結構若い女性の間に浸透しているらしいことを知って驚いています。
こういうのは、私にはどうしても理解が及ばないものがあります。どうしたって男の私にゃ子宮など無いのですから...
"子宮の意志に従う"ってどういうことなんだろ? 男だったらポコチンの意志に従うってこと?
だったら、もう世の中"やりすぎ"状態になるでしょうね...相手もその気だったら同意の上でってことなので、掴まる心配も無い...こりゃあ、ありかも?...あ、ふん...
なーんてことも思ったりもしますが、こういうことを聞いて"ざわざわ"してこなきゃオカシイでしょ?
"ざわざわ"だか"むらむら"だか下半身だけが、何かに反応してるだけで、自分が全的に赴く訳じゃありません。
全心全霊的なものに赴ける訳が無いのです! "誰かが言っていること"が介入し、支配しているのだから...
これに限らずおかしな宗教、スピには必ずと言っていいほど、そこにある影響力の強い教師とそれに群がる信者、追従者とで成り立っている構図が見られるものです。
そして又そこには、エネルギーの、金銭の搾取があります。
そこで"あなたは好きに生きていい"、"いい子で居る必要はない"、ととても口当たりの良さそうな言葉が取り交わされます。
その言葉だけを取ったら、私も首肯出来る部分もあります。"あなたはあなた、私は私でいい"のですからね。
だけど、それと"責任は負わなくていい"とか"他人に迷惑をかけてもいい"ということとは別ですよi
私以外の誰も私のために生きちゃあくれないのです。それが"あなたはあなたを生きている"ってことでしょ?
私は独身だし、背負うものが特に無いので、こういうことが簡単に言えちゃうのでしょうけど...みんな自主独立して生きているものです。扶養とか経済的なことは別にしても...
しかし、そういう理知的でもっともらしいこと、本当に子宮が言っているのか? (ケッタイなこと言わんでも、ただ欲望の赴くままにってことでいいじゃないかi)
誰かが言っているんでしょうがi...この言葉の魔力がカルト世界において決定的な影響力、支配力を持つのですi
私が言っている"じんじん"、"見えざる導き"とは全く違いますよi...そういう言葉が聞こえてきたりなどしません。もし聞こえて来たのなら、徹底的に疑ってみるべきです。
もし、現臨に捉えられるようなことにでもなったら、疑うことはほとんど物理的に出来なくなります。
これは神的なものの絶対支配に自分が屈服することなのでしょうか? 違いますi 疑ったり、信じたり、従ったりする自分が無くなることです。そこに本当の自由、自己信頼がある...だから"私は私でいい"のです。ということは、そこである行動に駆り立てられることもあるでしょうが、容易く他人を巻き込み、負担をかけるようなことにはなりません。他人の自由の尊さも分かるでしょうから...
見えざる導きとは言葉による使役ではありません。そこに愛、平安が示されることによる無言の導きなのです。
私はこうしたスピ界隈に蔓延している、神なるもの、霊なるもの、愛、平安、自由...こうしたものを似て非なるものに歪め、別なるものに変質させ、蹂躙し、神ならざる自我の思凝神がそこに支配して居る図を見せられるにつけ、いつも居たたまれない思いにさせられます。
私自身はとてもエラそうなこと言える人間ではありませんが、それでも"私が私である"ためには書かずにおれないものがあるのですi
こういうのは、私にはどうしても理解が及ばないものがあります。どうしたって男の私にゃ子宮など無いのですから...
"子宮の意志に従う"ってどういうことなんだろ? 男だったらポコチンの意志に従うってこと?
だったら、もう世の中"やりすぎ"状態になるでしょうね...相手もその気だったら同意の上でってことなので、掴まる心配も無い...こりゃあ、ありかも?...あ、ふん...
なーんてことも思ったりもしますが、こういうことを聞いて"ざわざわ"してこなきゃオカシイでしょ?
"ざわざわ"だか"むらむら"だか下半身だけが、何かに反応してるだけで、自分が全的に赴く訳じゃありません。
全心全霊的なものに赴ける訳が無いのです! "誰かが言っていること"が介入し、支配しているのだから...
これに限らずおかしな宗教、スピには必ずと言っていいほど、そこにある影響力の強い教師とそれに群がる信者、追従者とで成り立っている構図が見られるものです。
そして又そこには、エネルギーの、金銭の搾取があります。
そこで"あなたは好きに生きていい"、"いい子で居る必要はない"、ととても口当たりの良さそうな言葉が取り交わされます。
その言葉だけを取ったら、私も首肯出来る部分もあります。"あなたはあなた、私は私でいい"のですからね。
だけど、それと"責任は負わなくていい"とか"他人に迷惑をかけてもいい"ということとは別ですよi
私以外の誰も私のために生きちゃあくれないのです。それが"あなたはあなたを生きている"ってことでしょ?
私は独身だし、背負うものが特に無いので、こういうことが簡単に言えちゃうのでしょうけど...みんな自主独立して生きているものです。扶養とか経済的なことは別にしても...
しかし、そういう理知的でもっともらしいこと、本当に子宮が言っているのか? (ケッタイなこと言わんでも、ただ欲望の赴くままにってことでいいじゃないかi)
誰かが言っているんでしょうがi...この言葉の魔力がカルト世界において決定的な影響力、支配力を持つのですi
私が言っている"じんじん"、"見えざる導き"とは全く違いますよi...そういう言葉が聞こえてきたりなどしません。もし聞こえて来たのなら、徹底的に疑ってみるべきです。
もし、現臨に捉えられるようなことにでもなったら、疑うことはほとんど物理的に出来なくなります。
これは神的なものの絶対支配に自分が屈服することなのでしょうか? 違いますi 疑ったり、信じたり、従ったりする自分が無くなることです。そこに本当の自由、自己信頼がある...だから"私は私でいい"のです。ということは、そこである行動に駆り立てられることもあるでしょうが、容易く他人を巻き込み、負担をかけるようなことにはなりません。他人の自由の尊さも分かるでしょうから...
見えざる導きとは言葉による使役ではありません。そこに愛、平安が示されることによる無言の導きなのです。
私はこうしたスピ界隈に蔓延している、神なるもの、霊なるもの、愛、平安、自由...こうしたものを似て非なるものに歪め、別なるものに変質させ、蹂躙し、神ならざる自我の思凝神がそこに支配して居る図を見せられるにつけ、いつも居たたまれない思いにさせられます。
私自身はとてもエラそうなこと言える人間ではありませんが、それでも"私が私である"ためには書かずにおれないものがあるのですi