人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

中間世界との正しいつきあい方

2020-05-09 10:15:56 | 求道、探究
私がいつも例えば、霊界の存在とか、前世や来ない先の予言とかを短絡的に信じ込んでしまう心的傾向について批判的に書いたりしているのを読んで、中には"あれは私のことを言っているんじゃないか?"と感じて気を悪くする向きもおられるかもしれません。
しかし、ああいうのは、主として私がチョイと知ってる、反面教師にしている御仁を思い描いて書いているのでして、そういう各々のことはよく知らないし、その関わり方も違うのが当然なのだから、誰彼なしにああいうことを言う訳じゃないのです。悪しからず。
要するに何ごとでもそうですが、トラワレなきゃいいのです。トラワレにも程度の問題てのがあります。
あの反面教師ときたら自分が迷って、自爆するだけならいいのに、方々に拡散して他の人を道連れにしようとしているから警鐘しているのです。もっとも誰も相手にしないかもしれませんけど...
ところで、ああいう霊の世界とか、世間で所謂オカルトという括りで捉えられている領域のことを私は"中間世界"と呼んでいるのですが、これは大体、霊能者と呼ばれる人たちにしか本当は分かり得ない世界であり、そうでない私は多く語れないことであるのは言うまでもないことです。だからと言って否定する気など毛頭ありませんよ。
死後の世界、霊の存在について信じるか、信じないかと訊かれたら"信じますi"と答えるでしょう。
このことは、私が口癖のように言っている、"自分も世界も思われたままじゃない"、ということもその辺のことも何となーく含ませているのです。
又、実際に、何人か"神様のお告げを受けている"、"前世のことが、未来のことが分かる"という人と付き合ったこともあります。
しかし、いずれも良識を弁えている人たちのようで、"私が言っているのは真実です。間違いないのですi"、などと自説を押し付けてくるような人とは会ったことがありません。
"参考までに聞いといてくれ..."というようなノリで、そこで語られずとも、"我々"の間には暗黙の了解のようなものがあるように感じられました。"こういう話は絶対的なものじゃないのだ"というような...
ざっくり言って、こういう中間世界のことは、大体が"霊界物語"だと私は思っています。
どういうことかと言うと、それはある見えるもの(これはこの場合、形あるものとして思い描けるものの意)、霊現象、霊体(?)、霊言(?)を通して、その奥にある、見えないもの(思い描けないもの、言葉に言い表せないものの意)を伝えるもの、ある種の型、霊成型(ひながた)、物型理(ものがたり)ではないかと...見えないものは各自が直接悟らなければならないものでしょう。
つまりは、これ自体を絶対視してしまっては、その意味合いを成さなくなってしまう質のものなのです。
このことは、出口王仁三郎師の"霊界物語"が端的に"物語っている"ことではありませんか?
中間世界のことは神話的表現をもって表される...神話は直接歴史的、客観的事実ではないが、我々はその客観世界においてのみ生きているのではなく、霊成る世界とも相即して生きているのではないか?
私には、あの物語こそは、この中間世界の周辺に巣くう、霊界、予言などへの短絡的、熱狂的信仰、又物質的、客観世界だけを絶対視する合理的、科学的熱狂信仰に対する真の霊界の"語り部"からの応答だったように思います。
中間世界に関わることは、それにトラワレることで、思念によりクモの巣のように呪縛されるとも限りません。しかし、その媒体、型となるものを通して、自由な、普遍的世界に導かれることもあるかもしれません。
こういう意味で中間世界と呼んでいる由縁があるのです。
いずれに赴くは、精神が開かれているか、閉ざされているかで決まるでしょう。
コメント (6)
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