「わからなければならないのは自分自身の真実であって、誰かの真実ではない」
「この本との出会いについては自分自身に感謝すればいい。すでに大事なことを教えられたはずだ。最高の権威は自分自身のなかにある、ということを」
(ニール.ドナルド.ウオルシュ「神とひとつになること」/サンマーク出版)
私はおそらくかなりの読書家の部類に入るだろうと思います。
月に再読するものも含めて10冊以上は読んでいます。
宗教やスピなどの関連でも、数えきれないほど様々な道、教えのものを読んできました。
しかし、そのいずれにも、その道、教え一筋に帰依し、従事してゆくことは無かったのです。
一体、それらの書物から何を学び、何を体得し、そして何が残ったのか、いやそもそもそういうことを意図していたか、どうかということさえ無かったようにも思えるし、テンデに分かりません。
だけど、これだけは言える...ある書物と出会っているし、ある読書体験というものもある...いや、それは読書体験などという生易しいものではなかったかもしれない...読んでいるうちに疾風怒涛の如き精神的嵐に見舞われ、我を忘れてしまうこともあるなど、何をどう読んだかなど言い表すことが出来ないのです。
覚えているだけでも、マクドナルド.ベイン、ベルジャーエフ、手島郁郎、小池辰雄、玉城康四郎...そしてあの迷路のような出口聖師の「霊界物語」にもそういう契機となるものを見い出しています。
その中の一つ、通称"三千冊"と呼ばれる大調和協会の知られざる聖典の中で、会主命御は「ここで名告りを挙げているのは、人類というあなたなのです」と告げられていました。
キリスト.イエスは「聖書は私のことを証しているのである」(ヨハネ伝)と言いました。
書かれていることが真実かどうかなど分からないし、言葉そのものに信をおくことなどどうでもいいことでしょう。
著者がどういう人かということも...そうそう、「日木流奈」という脳障害児が書いた、何ていうのもありましたが、これなど極めつけのフェイクと言うべきでしょう。
しかし、その文章に接して、私の内なるものが揺すぶられたのは紛れも無い事実なのです。
たとえ一点でも言葉を通して、言葉に言い表せないものに出合わせられること、それはただの読書の感想などで片付けられる訳がありません。
それは"唯一無二の私"との出会いではないでしょうか?
私自身に会うということはそこには追従とか従属、まして特定の教えへの依存、狂信などあろうはずがありませんi
そして、世の中に数多の異なった教えや思想があるように見えるが、本当に自分自身が帰一されるのは一つしかないのではないか?
私は一なるものだし、その私の魂が揺さぶられることは二つないことなのだから...
万巻の書を読破しようと、"私自身の書"というのは、一書あるのみ...そして一なるものは全てなるもの...
私自身の真実が書かれているのは、沢山あるのではない、唯一無二の書しかないのです。
「この本との出会いについては自分自身に感謝すればいい。すでに大事なことを教えられたはずだ。最高の権威は自分自身のなかにある、ということを」
(ニール.ドナルド.ウオルシュ「神とひとつになること」/サンマーク出版)
私はおそらくかなりの読書家の部類に入るだろうと思います。
月に再読するものも含めて10冊以上は読んでいます。
宗教やスピなどの関連でも、数えきれないほど様々な道、教えのものを読んできました。
しかし、そのいずれにも、その道、教え一筋に帰依し、従事してゆくことは無かったのです。
一体、それらの書物から何を学び、何を体得し、そして何が残ったのか、いやそもそもそういうことを意図していたか、どうかということさえ無かったようにも思えるし、テンデに分かりません。
だけど、これだけは言える...ある書物と出会っているし、ある読書体験というものもある...いや、それは読書体験などという生易しいものではなかったかもしれない...読んでいるうちに疾風怒涛の如き精神的嵐に見舞われ、我を忘れてしまうこともあるなど、何をどう読んだかなど言い表すことが出来ないのです。
覚えているだけでも、マクドナルド.ベイン、ベルジャーエフ、手島郁郎、小池辰雄、玉城康四郎...そしてあの迷路のような出口聖師の「霊界物語」にもそういう契機となるものを見い出しています。
その中の一つ、通称"三千冊"と呼ばれる大調和協会の知られざる聖典の中で、会主命御は「ここで名告りを挙げているのは、人類というあなたなのです」と告げられていました。
キリスト.イエスは「聖書は私のことを証しているのである」(ヨハネ伝)と言いました。
書かれていることが真実かどうかなど分からないし、言葉そのものに信をおくことなどどうでもいいことでしょう。
著者がどういう人かということも...そうそう、「日木流奈」という脳障害児が書いた、何ていうのもありましたが、これなど極めつけのフェイクと言うべきでしょう。
しかし、その文章に接して、私の内なるものが揺すぶられたのは紛れも無い事実なのです。
たとえ一点でも言葉を通して、言葉に言い表せないものに出合わせられること、それはただの読書の感想などで片付けられる訳がありません。
それは"唯一無二の私"との出会いではないでしょうか?
私自身に会うということはそこには追従とか従属、まして特定の教えへの依存、狂信などあろうはずがありませんi
そして、世の中に数多の異なった教えや思想があるように見えるが、本当に自分自身が帰一されるのは一つしかないのではないか?
私は一なるものだし、その私の魂が揺さぶられることは二つないことなのだから...
万巻の書を読破しようと、"私自身の書"というのは、一書あるのみ...そして一なるものは全てなるもの...
私自身の真実が書かれているのは、沢山あるのではない、唯一無二の書しかないのです。