人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

自粛と意識的であること

2020-05-30 10:10:51 | 意識、照明
国内では、アチコチから自粛の緩和に伴って、コロナ禍第二波の兆候も見られてきたようです。
しばらくは、"出たがる"気持ちは、なるべく抑えた方がいいでしょう。
私はこの自粛の要請は、ある面いいことだと思っているのです。
というのも普段は物静かな性格なので、例えば飲食店などではデカイ声で、口角泡を飛ばすような会話がキライだし、座席も隣り合わせになることもなく有難いと感じているのです。(もっとも二重人格の私は、時に我を忘れて興奮して、"黙れi"とかやって、"アンタが一等ウルサイi"、とか言われてしまうのですが...)
本来、日本人は外に出るのはともかく、自分、"ガ"を前に出すことはあまり好まない、それを忌み嫌う民族だったのではないでしょうか? 
これは、短絡的に物事を取らない、思いを固めない、囚われない、ということに通じます。
こういう慎ましさは消極的と受け取られ勝ちになるものですが、それをただのモラル的なものとして片付けてしまうのは、重大なことを見落とすことになりかねないでしょう。
いや、そうした自分を一歩引っ込めたところで与れる感性を失ったから、モラル云々ということが言われ出したのでしょう。
自分の思いを引っ込める、物事を自分の狭い見識に取り込まない、狭い見解で解釈しない、固執しない...そういう性向に基づいて言挙げすれば余計角が立って狭い、窮屈な、そして不調和な空気が生まれてしまうから言い表さない...
一歩引き下がって距離を取ってみる...人間関係、ソーシャルなことだけじゃなく、自然でもなんでもそうしてみたら、こちら側でなく、あちらの方が豊かに、アリアリと物語るということが分かるでしょう。
このことを特に言えるのは、精神、スピに関することです。
それらは見えないだけに分からないことだらけなのです。
"霊、死後の世界はあるi、前世はある!、何年後の未来はもう決まっているi..."、こういう理に疎く、短絡的に受け取り、言葉に限定して、決めつけてしまう人間は、思念を超えたことは思念によっては分からない、ということが分からないのです。
それで、如何にその"分からない"という、どこまでも深く、広い、言葉に言い表し得ない世界の息吹に与れる感性を枯渇させてしまっていることかi
彼らは何かを見た、分かったつもりになっていても、何も見ても、分かってもおらず、その世界が開かれる扉を閉ざし続けているのです。
自分を引っ込めなければ、決してその世界は開かれませんi
自分を引っ込めるとは、意識的になることとほぼ同じです。
それは、表層の思いを引っ込めて、その奥に息づく意識の方に出て頂く(自分が出そうとすることとは違うi)ことに他ならないからです。
自分がやろうとしなくて、何でそんなことが可能かと言えば、すでに出られる御方がここに来ておられるからなのですi
思おうとする、やろうとする私より先に...自分に先立つものがあるi ...このことが蔑ろにされたところにすべての本末転倒が起こるのでしょう。
自分の思いからであっても、この御方を立てようとすることで、その思いはその御方に取り込まれたりするのです。
そこに祈りというものがあるのでしょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする