人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

ただひとつの祈り

2020-05-17 09:50:46 | 祈りと瞑想
精神的な道では祈りのやり方、祈り言葉というものは数知れずあります。
しかし、これを言い表すに一寸、矛盾が出てくるし、字句通り受け取ってしまっても困るのですが、私は祈りというのはただ一つしかないと思っています。
それが本当に神仏への帰依、一体化を目指すものだとしたら...
どういうものかと言うと..."み心のままになさしめたまえ"、という響きを持った祈りのことです。
神道的には"かんながらたまちはへませ"であり、イスラーム的には"インシャラー"、ということですね。
ごく単純に"アーメン"でも、"南無..."でもいいでしょう。
要するにそういう決まった形、言葉が有ろうと、無かろうと、そのような心魂に導かれ、発せられるもののことを言っているのです。
こういうものが蔑ろにされた時、ともすると主我的な自分が、自分が"思っている神"に、願いを叶えてくれるように使役するという、本末転倒した事態になり勝ちになるでしょう。
神は人の思いを超えている..."み心のままに"、ということは自分の思いを開いて、そのものにゆだねる、ということなのです。
神を信じている人は沢山居れど、本当に信じるということは、こういうことではないでしょうか?
自分の心、思いというものを神のみ心にスリ変えている人間が何と多いことでしょうi
そして、"私はこの神を、この教えを信じている"、と自分の思念だけで頑なにそれを強めて、狂信、盲信してしまうことなど、全く意識の方向性が違うことで、彼らには"全託の道"など決して開かれないのです。そんな気などこれっぽちも無いのだから...
神の現存を求める、神のみ心にゆだねる...その気の無いものには、そもそもこういった話など無駄なことですi
イヤ、そうは言っても...その気というものは、表層の思いでは分からずとも自ずと出てくるものでもあります。
"み心のままに..."にと祈っていれば...

私には、人がそう伝えている、"OOの祈り"といったものは何一つ身につかなかったのです。
"お前はただ、み心のままに、かんながらたまちはへませ、と祈っていたらいいんだi"
こういう促しをいつ受けたのか、定かではありません。本格的に精神的な道を探求し始めた、昭和53年頃だったのは確かでしょう。
しかし、この言葉にならない響き...もうただごとでないことが始まらずにおれない、という予感はずっとしていたのです。
そして、いつの間にか、惹かれてやまない、というものが芽生え、気が付いたら、ただの観念信仰から一歩踏み出してしまっていたのでした...。

コメント
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