人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

意識とリアリティ

2021-03-11 12:18:12 | 意識、照明
"意識を何かに向ける、意識的になる...すると現臨、現存するもの、リアリティとつながる..."
と、いうようなことをいつも書いている訳なのですが、このリアリティというものは、どういうものなのか? いつも言うように、それは客観的に証明されるものじゃありません。そんなものがあったところで、"へえ、そうなんだi"、でおしまいでしょう。
宗教やスピ界隈では、この事実というものが、ちっとも我々一人一人のうちに、生きたものとならずに言葉だけが一人歩きしていることが実に多いですね。
"(実体をもった)神や霊界、前世の存在は事実なんだi"とか...霊感者とか、そういうものを見たり、感じたりする人にとっては、そう言い得るのかもしれませんが、多くの人は、そう突きつけられても信じるか、信じないか...つまり思考を巡らし、観念の世界だけで事実性らしきものを求めなければならなくなるのです。それはどこまでも仮想の事実に過ぎないのですが...
同じようなことが神や霊界についてほとんど語らない、ノンデュアリティの道にも言えます。
"あなたという個人などまやかしであって、存在しないのは事実なのですi"...と言われても大抵の人は、"そうかあ、まやかしだったのかあ、事実に目覚めなきゃならないのかあi"と、どんな教えでも、今より生きやすい、幸福になれる生き方を謳ってるものなので、そう信じよう、思おうという心的作用が働くものでしょう。
そして、中々そうならない(なる訳がない?i)し、思えないので、結局は迷い、かえって別の悩みを作り出してしまうのでしょう。
"スピリチュアル、ノンデュリアリティ難民よどこへ行く..."
ここには事実、リアリティというものは、自己に"直に"示されて、開かれるものである、という当たり前のことが蔑ろにされているのです。
あなた自身が、"これこそは事実だ、リアリティだi"、と感じずしてそういうものは、どこにもあり得ようはずなど無いじゃありませんかi
他人がそういう信仰を振りかざすのは、越権以外の何ものでもなく、一種の暴力に等しいと言わざるを得ませんi それこそまやかしの最たるものでしょう。
スピ界隈には、このようにあまりにも意識というものを、意識していない発言が多すぎるのではないでしょうか?
そう、こういうことは、考え巡らすのでなく、少しく意識的になってみたら分かってくる...かもしれない(無理に信じなくてもいいですよi)
今、現在何か問題を抱えていたとして、それは現に苦しみや悩みをあなたは感じていることに他ならない訳で、それは当面の事実なのでしょう?
それを"苦しんでいる私は居ない、苦しみなんて幻想..."、といくら思い込もうとしたって、一時的に暗示にかかったようになったりするかもしれないけど、所詮は思い描いた世界のことに過ぎません。
根本的にはどうか知らないけど、今苦しんでいるという事実は受け入れないとならないのです。
この受け入れるということが、意識的になることと言い換えてもいいでしょう。"向ける"、とか"向かう"という意味もここにあるのですi
事実を受け入れると、思いの波が切れる、思いの密閉空間に隙間が出来ることが実感出来るでしょう。
そうして始めて、自分の思考を超えたものを感じられるようになる...すなわち意識の次元が開かれるのです。
そして自然な意識の動きが起きる...これを向くとか言っている訳です。意識を向けようと思おうとしなくてもそうなるってこと。
これがもっと深まると神的になってくる、現臨が降りてくると言っているのですが...
私は何度も経験しています。意識的になる、思いが切れる...すると、問題だったものが消えてしまうことを...
これは事実なんだから受け入れざるを得ません。そこに事実、現実をそうたらしめているものがある...現臨。これがリアリティなんだi 信じようが、信じまいが地球は回るi、
リアリティというのは、あなたがそう感じたものに他ならない訳ですが、私の場合はフツーに現実、事実と言われている、状況によって変わるものよりも、もっと動かない、形容で無しに疑うことが出来ない現実、事実のことを多く言っています。
この地点からは、何人でも、私の感ずるリアリティというものを共有出来るはずなのですが...
これを数多ある信仰の一つと感ずるか、究極のリアリティと感ずるかはあなた次第ですi
コメント (2)
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