人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

内なるものと普遍性

2021-03-18 12:01:27 | スピリチュアル
私の精神的道は、自己の内なるものと普遍的なるものを求めて来た、と言っても過言ではないのです。
この二つのことは、一寸考えると矛盾したもののように感じるでしょうが、私には実に切り離せないものです。
しかし、そのことをハッキリ、分かりやすく説明することはとても困難です。
"感じてもらうしかないi"、とか言ってたらいいんでしょうけど...見える現世にあっては、求むべくもないものとは言えるでしょう。
普遍ということ...それは普遍世界という風に、グローバルな国家や民族や宗教を超えた世界のことを思い描くのでしょうが、現実にそういうものを見い出せるでしょうか?
そういうことを謳っている宗教や、思想団体というものを私もいくつか知っていますが、現実にそのような在り方で展開している例というものを、私はほとんど知らないのです。
大概は、そこにも信仰や思想の壁というものが重く立ちはだかっているのです。
"いいや、ウチの団体には異なった宗教や思想の人たちも来ているのですよi"、という声もあるかもしれませんが、そういう形があったからと言って何になるでしょうか?
その普遍性というものは、私の内なるものから開かれ、響くもの...他との関わりの中で響き合うものなのか?
この故に、この両者は切り離せないものなのです。
多くの宗教で当初はそういう目論見があったであろうように、神というものを掲げることによって、あるいは普遍性というものを我々の心に呼び覚ますこともあるかもしれません。
しかし、それがかえって相対対立、混乱を惹き起こす要因となってしまうものなのですが...
ある団体との関わりにおいて言葉を超えた、生きた神的なものに触れることがあります。
時にその関係者から、"そういうものに与れることが出来るのはここしかありませんi"、という声が聞かれたりするのです。
しかし、それが神的な、普遍的、永遠の生命といったものなのでしょうか?
その霊なるハタラキ的なものは、団体によって微妙に感じ方に差異は認められるものですが、根本的なところは一つのものであるはずです。
唯一無二の私という存在を通して感ぜしめるものだからです。それが内なるものを開くものであれば、どうしたって一なるものに導かれざるを得なくなるでしょう。
これは、言うまでもなく抽象的に語られるものではありません。私に直に目の当たりにされるようなことなのですから...
異なる団体において、こうした多様性を超えた、一なる生きたものが感受される時、そして又私以外の、同様の他者との交わりを通して、あるいはそこに"普遍性"というものの一端に与ることも出来るかもしれません。
それでも、この客観世界にそういうものを見い出せないことには変わりません。まあ、そうなったらきっと神の国の現実に生きていることになるのでしょうが...
つまるところ、内なるものと普遍性という、この不可離のものは神的なものにあって開かれると言うことでしょう。
コメント
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