私が所謂ノンデュアリティなどのスピの教えに接してみて、いつも疑問に感じるのは、例えば、苦しみの要因となるのは、私という個人が居るという思い込みにある、という基本原理?に絡めて、"そういう思いを無くせばいいのです"、とか"囚われなきゃいいのです"、"意識しなきゃいいのです"...と、出来そうにないことを言い放つ、というところにあるのです。
言われた方は、"どうやったらいいのだろう"と当惑するか、"無くそう、囚われまい、意識しまい"、と意志想念を働かせるしかなくなるでしょう。
すると又"だからそう思ったり、やろうとするあなたは居ないのですi"、と追い討ちをかけられ、そして"悟るあなたも居ないのです"となり、"じゃ、私は何で(何かのセミナーであれば)ここに居るのだろう..."と、地球を一回りして又元に戻るようなことになってしまうのです。
しまいに教師の口から衝撃の発言が..."こういうことは、頭で理解出来ることじゃないのですよi"...じゃ、何でそういう説法に付き合わなきゃならないのでしょう。
ここには思いを超えたもの、そう導くものの消息が伝わってこない、ということに尽きるのです。
その教師たちは如何にして、その...居るような、居ないような境地に導かれたのでしょうか?...彼らは何らかの苦境にあって、その解決のため、幸福に与らんため、求め心というものがあったのではないでしょうか? 彼らの下に集まる人たちと同様に...
こういうことは分かりきったことじゃないですかi
"それまで、頭で分かったつもりになっていたことはすべて幻想だった..."、"私、私、私...ずっと私を苛み続けたこの私にまつわる思いは幻想だったi(これが私が、"私は居ない"という真理?について感じていることです)
これ、すべてがそのものに出くわしたことによって示されたものじゃないですかi
それ無くして私はどこにも、真実、リアリティというものを見い出すことが出来ません。
そして、覚醒、エンライトメントと言われるものは、そのものを"受け入れる"、ということの他には無いと思います。
そして又、思われた私は無化されない限り、思いを超えたものに与ることは無いだろう...
無のハタラキがある...聖霊、ダンマ...名称はどうあれ、これは老子や禅の研究家、伊福部隆彦先生の目からウロコの老子解釈の通り、思われた自分が無為にしてなど為しようがないのです。
"囚われまい、思うまい"としなくても、無為にして為さしめるものがあるのです。
日常の諸相においては取っ掛かりとして、"受け入れよう"と意志したりする訳ですが、より精神の内奥~純粋意識の次元に関わる地点においては、思考する自己、人為的な思いは、無為的なハタラキに明け渡さなければならないのです。
少なくとも私はそれに与ろうとして、そうなったことは一度もありません。思われたままの自己からは、それを受け入れることは出来ないのです。
ただ、その思いを超えたものの後押しというものは感じられるのです。
これは、仏教で言われる発心、祈り、待ち望むことの内にもそのハタラキを感じられるはずです。
だから...あれこれ考えている自分は、受け入れることが出来ないものですが、いつの間にか(思いを超えて)受け入れられてしまうのでしょう。
これは、裏側からのサポート無くしては考えられません。
そうして考え続けている自分を受け入れられたら、一瞬でも思いの波が切れるのが感じられるでしょう。
それが深まってくると無の世界の扉が開く...かもしれません。
やはり、菩提達磨が言ったように、悟る時は真理の方が迫ってくるのでしょう...。
言われた方は、"どうやったらいいのだろう"と当惑するか、"無くそう、囚われまい、意識しまい"、と意志想念を働かせるしかなくなるでしょう。
すると又"だからそう思ったり、やろうとするあなたは居ないのですi"、と追い討ちをかけられ、そして"悟るあなたも居ないのです"となり、"じゃ、私は何で(何かのセミナーであれば)ここに居るのだろう..."と、地球を一回りして又元に戻るようなことになってしまうのです。
しまいに教師の口から衝撃の発言が..."こういうことは、頭で理解出来ることじゃないのですよi"...じゃ、何でそういう説法に付き合わなきゃならないのでしょう。
ここには思いを超えたもの、そう導くものの消息が伝わってこない、ということに尽きるのです。
その教師たちは如何にして、その...居るような、居ないような境地に導かれたのでしょうか?...彼らは何らかの苦境にあって、その解決のため、幸福に与らんため、求め心というものがあったのではないでしょうか? 彼らの下に集まる人たちと同様に...
こういうことは分かりきったことじゃないですかi
"それまで、頭で分かったつもりになっていたことはすべて幻想だった..."、"私、私、私...ずっと私を苛み続けたこの私にまつわる思いは幻想だったi(これが私が、"私は居ない"という真理?について感じていることです)
これ、すべてがそのものに出くわしたことによって示されたものじゃないですかi
それ無くして私はどこにも、真実、リアリティというものを見い出すことが出来ません。
そして、覚醒、エンライトメントと言われるものは、そのものを"受け入れる"、ということの他には無いと思います。
そして又、思われた私は無化されない限り、思いを超えたものに与ることは無いだろう...
無のハタラキがある...聖霊、ダンマ...名称はどうあれ、これは老子や禅の研究家、伊福部隆彦先生の目からウロコの老子解釈の通り、思われた自分が無為にしてなど為しようがないのです。
"囚われまい、思うまい"としなくても、無為にして為さしめるものがあるのです。
日常の諸相においては取っ掛かりとして、"受け入れよう"と意志したりする訳ですが、より精神の内奥~純粋意識の次元に関わる地点においては、思考する自己、人為的な思いは、無為的なハタラキに明け渡さなければならないのです。
少なくとも私はそれに与ろうとして、そうなったことは一度もありません。思われたままの自己からは、それを受け入れることは出来ないのです。
ただ、その思いを超えたものの後押しというものは感じられるのです。
これは、仏教で言われる発心、祈り、待ち望むことの内にもそのハタラキを感じられるはずです。
だから...あれこれ考えている自分は、受け入れることが出来ないものですが、いつの間にか(思いを超えて)受け入れられてしまうのでしょう。
これは、裏側からのサポート無くしては考えられません。
そうして考え続けている自分を受け入れられたら、一瞬でも思いの波が切れるのが感じられるでしょう。
それが深まってくると無の世界の扉が開く...かもしれません。
やはり、菩提達磨が言ったように、悟る時は真理の方が迫ってくるのでしょう...。