人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

自力も他力もないi

2021-03-28 10:45:28 | 求道、探究
悟り、覚醒、神と一つになること...目的、表現はともかく、そういうことを目指しているような人は、ある程度その方面の知識を有しているのが普通でしょう。
これは、現代のような情報が豊富に得られる環境にあればごく自然なことで、何らかの情報に触れたことが、そういう方に赴く切っ掛けとなったとも言えるでしょう。
そして、そこから何かの修行法などを見い出して関わるようになるのかもしれません。
その修行法は、所謂自力修行というものを謳っているらしい...自分以外の神とか超自然的な存在、力などに頼ってはならないと。
しかし、それは師家とか指導者に当たる人がそう指導していたりするのではないでしょうか?
別の例で、今日では特別な宗教信仰や修行に関わらない者、指導者の存在無しでも精神的目覚めに与ってしまうということも多々あるようです。
こういう人は、先と違う意味で自分自身からそういう道が開けた、ということになるのでしょうか?
自ずとそうなったにせよ、そこにそうさせるものがあることが示されているのです。
そこで、一先ず、一切の先入観、固定観念を脇へ置いて考えて見てください。
どうやったらそのような体験に与れるのでしょうか?
そう意識させるもの無しに、意識がそっちに向くということがあるでしょうか?
今、言ったことだけで、どれだけ自分以外の縁に依っているかが知れようというものです。
"縁とか一切の関わりを断つことが究極の悟りだ"、なんて言ったって、そういう縁無しにはそう思い描くことすら出来ないのです。
ここに、所謂自力というもの、自分以外の何ものにも頼らない在り方には多くの錯覚があることに気が付くでしょう。
だからと言って私はここで、"神を信じなさい!"、などと言うつもりなど勿論ありません。
自分以外のものに頼らない、という人の気持ちも私なりに分かっているつもりです。
宗教、スピがあまりにも安易な依存信仰を広め、容易く信じ込む在り方によって数々の"不信"を招くことになってしまったからです。
だからこそ、ここは一切の先入観、予見、固定観念を排して向き合って見て欲しいのです。
この思われたままの自分からは何一つ始まってこないのだ、ということに...
その自分は何を求めているのか、どう感じているのか、このままでいいのか、変えなきゃいけないのか...誤魔化しなしに向き合って欲しい...誰もあなたに代わって生きちゃくれませんよ。あなた以外の誰も...え?
"神も、宗教も、修行法もすべて予見だi...すべての観念ごとを排したそこには現存というものしかないi 現存するところあらゆる観念ごとは消える...思われたままの自分も消える..."
これは、自己と自己を超えたものが一如になっている在り方を私の言い回しで言っているのです。思いを超えるとは、思いを超えたものによってなされ、そのことで"私は在る"ようになることです。
要するに、自力とか他力とか、一元とか二元とか...如何に先入観、予見によって、現存に向き合わなくさせているか、見えなくしているか、ということを言っているのです。
向き合うとは、意識が向かうということであり、そう向き合わせるものがあるということです。
だから...向き合わなきゃ、と思う間に向いちゃう?...どうしてもそうなるんですがねえ...。
コメント (5)
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