人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

そこに愛はあるのか?

2021-03-25 12:17:56 | 
そこに愛はあるのか?
ドラマやCMのセリフじゃないけど、私はこれほど人生の指針となるものは無いと思っています。
精神的道の探求において私は、誰しもそうであろうように、真理の追及といったものを思い描いていたのでした。
ただ、何が正しいかどうか、その基準というものは分からないのです。自分は正しいと思っていても、別の人は"あんなん、バカじゃなかろうか?"、と思っているかもしれないのです。
大体が、私がそうであったように、表向き如何にマットウそうな理屈を装っていても、その時に気が向いた、興味を持ったものに、あるいは役に立ちそうなものに心が奪われるものじゃないですか?
それは当面心惹かれたというだけで、本当に自分にとって惹かれてやまないものなのかどうかは分からないのです。周りの声を気にする人は、それで"何だ、そんなもん..."という声を聞いて矛先を変えるかもしれません。
正しい真理というものは、かくもグラツき、頭の中でさ迷い続けているものなのです。中には自分がそうなっていることを自覚出来ないまま、何十年も惰性で歩み続けている者も居るかもしれません。
"あの時は、心霊、オカルト的なものに被れて霊界などの実在に触れないものは真理ではないと思っていた"..."真理の追及が魂の進化に結びつくものだと思っていた"...そして、自分の内奥には何一つ充実感、安らぎというものは感じられなかったのでした。
しかし、そのことから私は、確かにそこにもっとも大切なものを置き忘れているであろうことは感じていたようです。
"それはもしかして愛なのだろうか?"...それはしかし、抽象的観念として思い描かれていたものに過ぎなかった...いや実際はそう感じていたけれど、そういう思いが見えなくしていたのでしょう。
"愛なんてものは表層的な感情の表れなんだろう? それよりも内面、魂の進化だ、真理の追及だ..."
しかし、愛と切り離された真理など在るでしょうか? 抽象的に思い描かれた真理は、愛によって具体性を帯び、血肉となるのではないでしょうか?
これは愛情といったもの、いや、あらゆる人間の精神に関わるものよりももっと根底に息づく、"愛そのもの"のことです。
愛とは具体的に感じられるもの...愛についての抽象論ほど愛にもとるものはありません。
"愛とは掴むものでなく、捉えられて分かるもの...私は求道の初期の頃、確かに愛に捉えられたことがあったのではないかi 私は一体どこへ向かおうとしていたのか?"
過去を振り返ると、寒心に耐えない思いと共に、知らずに見えないものに導かれていたことを感じずにおれません。
もし、そこに愛があるのなら...もはや選択の余地はありません。どんな高遠なる真理が、究極の悟りへの道が説かれていようと、そこに愛が無ければ却下されるまでです。
"愛を裏切ることは出来ない...愛は裏切らないものだから..."
これは言うまでもなく、精神的な道に限ったものでなく、人生のあらゆる場面に当てはまるものです。
思えば、迷いもあった、遠回りもあった...しかし、惹かれてやまない、最愛のものはどっかで覚えられていた...私でなくあの御方の方が離さなかったようなのでした...。

コメント (2)
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