人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神の現臨なかりせば...

2024-10-26 10:25:13 | 現臨、ハタラキ
私がいつも精神的な道について書いていることは、もうほとんどが“神と共にある“ということについてと言ってもいいのです。
このことを主に、“神的なものが臨む“と言い表しているのですが、いつも言うように、神という言葉に拘る必要は無く、要するにそれは、自分の思い、力を超えたものなのだから、何か分からないものだけれど、アリアリとその現前、現臨は感じられるものなのです。
これは、私が考えたドクトリンのようなものでも何でもなく、イエス、ブッダ、老子始め、これまでの幾多もの、有名、無名のその道の教師などが伝えていたと言ってもいいでしょう。
しかし、数多もの宗教書などで、言葉に置き換えられて表現される時、正にそれが言葉に言い表され得ないものである故に、その中身が伝わらず、その意義も軽んじられ、蔑ろにされ、合理的に解釈されてしまう事態になってしまうことを私自身いつも通説に感じてならないのです。
このことが抜け落ちると...例えば、霊性を開くには、思考マインドから離れなければならない、意識を集中しなければならない、姿勢を正し、呼吸を整えなければならない、決まった祈りの文句を唱えなければならない、そして又、特定の神を信じ、拝まなければならない!...
と、このように思い、為そうとする自分が信じ、従い、為すことばかりが手動になってしまうのです。
しかし、神が臨むということは、既に霊性の道においては必須の条件とも言える、思考を離れて意識の統一が成されているということなのです。
それは言うまでもなく、こちらの信じ、従い、為そうとする意志想念を超えて、すべての“ねばならない“ことから自由に、そのものが手動となって、自ずとそうなるということなのですが...
私なんかは、僅か数分ですら、精神を集中することなど出来ません。
そういう気根が無いからこそ、それが如何に困難なことかが分かるのかもしれません。
ああ...このことを思うともう、他人行儀なことなど書けなくなってしまうではありませんか?
神の現臨なかりせば...
私はもしかして、コペルニクス的、革命的なことを書いているのだろうか?
それは、ですからイエス、ブッダ、老子の昔から言葉を超えて伝えられて来たものに他ならないはずなのですが...
到底、私には与り知れないことなのに!
ただ、私同様に自分が思い、為すことに限界を感じておられる多くの方には、この言葉に言い表せない、この驚くべき恩寵の事態の某かのことは、伝わることを信じ、願い、こうして書かされている次第なのです。...







                                               
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