悟りというと仏教に付きもので、そこからこの概念が広まったようなのですが、ではその宗祖ブッダの悟りがどういうものだったかについては定かではないのです。
そればかりか、前世とか輪廻転生というものも私など長いこと仏教の通念のように思い込んでいたのですが、原始経典に拠っても、ブッダ本人がそういうことを説いたことは無いようです。
悟りは常人を超えた高い境地というイメージがあるようですが、私はブッダが説いたことは、もっと現実的な、普通に生きている個己に即したものであったという気がしてなりません。
このことはブッダ在世当時の、バラモン教が教権を持って支配していた社会を想起すれば分かってくるのではないでしょうか?
実は前世や輪廻の教えというのは、バラモン教から来たもので、それが後年ブッダの教えと混同されてしまったということが定説になっているようなのです。
そして前世のカルマ、輪廻から解脱するにはたゆまぬ苦行をし続けなければならない、という教えも同様なのですが、ご存知のようにブッダは、苦行からは安心を得られないことを“悟られた“のでした。
常人には中々馴染めない苦行、前世とか現実には無い世界を夢想することなど、すべての信じ、従い、行わなければならないという、苦しみを作り出す強迫、威圧的固定観念から自由になること、そこに解脱という響き、含みがあったのではないでしょうか?...これは又カースト制という社会システムの縛りから自由になることにも向けられていたはずです。
これは、極めて現実に即したことですね。悟りというのは、もっと現実世界を超えた高次元の世界に関わることと思われますか?...そういう世界を思い描いて、あなたは本当に現実に心が安まるでしょうか?...有るのか無いのか分からない世界を夢想し、悟りを得られる保証の無い、苦行をし続けていて安心に与ることが出来るでしょうか?
現実とは現に実現していることなのですよ。我々を縛るすべての固定観念から自由になることは直ちに心が安らぎ、生まれ変わったようになることなのですよ。
これは、“今、ここ“に無いものを夢想している人間には絶対に分からないことでしょう!
この現実的な悟りの教えはしかし、誰にも実行が可能な教えなのかというと、それはちょっとズレているでしょう。
元より何もしなくていいほど簡単なことには違いありません。だけど先の例で、あなたは固定観念を捨てねばならない、ということになりそうですが、現実にそんなこと出来るでしょうか?、何かをやらなければならないのならバラモン外道と一緒ではありませんか?
これは、だから自分の思い、力を超えたものに拠って為されるということなのです。
これが抜け落ちると、思い、為す自分を中心に考えなければならなくなるのです。それ無くして何にも始まって来ないにも関わらず...
この超越的ハタラキをブッダは法~ダンマと呼んだのです。神とは呼ばなかった。
これもバラモン教と関わるようですが、一説には神という言葉は、バラモン教以外で使うのは禁じられていたらしいのですが、とにかくバラモンというのは、何でもかんでも神と結びつけ、祭祀の対象とし、そういう形而上的実体として捉え、人々はそれに纏わる観念に縛られていたらしいことが関係しているようです。
ところで、仏教というのは、日本人には代表的な宗教としてみられているようですが、ブッダはそれに付きものの祭祀や儀式などについてはほとんど言及していないのです。
だから、本当はブッダは仏教の宗祖なんかじゃなかったのですよ。仏教でなかったら、宗教でなかったら何だ?...何だっていいだろう!...私は元より何教でも無いですよ。あなたもそうでしょ?...特別な人間でない、一自由人にすぎません。
そう、自由なんだ!、自由こそは悟りだ、救いだ!
その真の自由人を私はブッダに見い出さずにはおれません!...
そればかりか、前世とか輪廻転生というものも私など長いこと仏教の通念のように思い込んでいたのですが、原始経典に拠っても、ブッダ本人がそういうことを説いたことは無いようです。
悟りは常人を超えた高い境地というイメージがあるようですが、私はブッダが説いたことは、もっと現実的な、普通に生きている個己に即したものであったという気がしてなりません。
このことはブッダ在世当時の、バラモン教が教権を持って支配していた社会を想起すれば分かってくるのではないでしょうか?
実は前世や輪廻の教えというのは、バラモン教から来たもので、それが後年ブッダの教えと混同されてしまったということが定説になっているようなのです。
そして前世のカルマ、輪廻から解脱するにはたゆまぬ苦行をし続けなければならない、という教えも同様なのですが、ご存知のようにブッダは、苦行からは安心を得られないことを“悟られた“のでした。
常人には中々馴染めない苦行、前世とか現実には無い世界を夢想することなど、すべての信じ、従い、行わなければならないという、苦しみを作り出す強迫、威圧的固定観念から自由になること、そこに解脱という響き、含みがあったのではないでしょうか?...これは又カースト制という社会システムの縛りから自由になることにも向けられていたはずです。
これは、極めて現実に即したことですね。悟りというのは、もっと現実世界を超えた高次元の世界に関わることと思われますか?...そういう世界を思い描いて、あなたは本当に現実に心が安まるでしょうか?...有るのか無いのか分からない世界を夢想し、悟りを得られる保証の無い、苦行をし続けていて安心に与ることが出来るでしょうか?
現実とは現に実現していることなのですよ。我々を縛るすべての固定観念から自由になることは直ちに心が安らぎ、生まれ変わったようになることなのですよ。
これは、“今、ここ“に無いものを夢想している人間には絶対に分からないことでしょう!
この現実的な悟りの教えはしかし、誰にも実行が可能な教えなのかというと、それはちょっとズレているでしょう。
元より何もしなくていいほど簡単なことには違いありません。だけど先の例で、あなたは固定観念を捨てねばならない、ということになりそうですが、現実にそんなこと出来るでしょうか?、何かをやらなければならないのならバラモン外道と一緒ではありませんか?
これは、だから自分の思い、力を超えたものに拠って為されるということなのです。
これが抜け落ちると、思い、為す自分を中心に考えなければならなくなるのです。それ無くして何にも始まって来ないにも関わらず...
この超越的ハタラキをブッダは法~ダンマと呼んだのです。神とは呼ばなかった。
これもバラモン教と関わるようですが、一説には神という言葉は、バラモン教以外で使うのは禁じられていたらしいのですが、とにかくバラモンというのは、何でもかんでも神と結びつけ、祭祀の対象とし、そういう形而上的実体として捉え、人々はそれに纏わる観念に縛られていたらしいことが関係しているようです。
ところで、仏教というのは、日本人には代表的な宗教としてみられているようですが、ブッダはそれに付きものの祭祀や儀式などについてはほとんど言及していないのです。
だから、本当はブッダは仏教の宗祖なんかじゃなかったのですよ。仏教でなかったら、宗教でなかったら何だ?...何だっていいだろう!...私は元より何教でも無いですよ。あなたもそうでしょ?...特別な人間でない、一自由人にすぎません。
そう、自由なんだ!、自由こそは悟りだ、救いだ!
その真の自由人を私はブッダに見い出さずにはおれません!...
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