「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなり」(歎異抄)
私は人が如何に悟るとか救われるか、ということは知らないのです。
世界が平和になるのかどうかということも!...
まして、自分が悟っても救われてもいないのに、私が人を世界を救うなどというのはおがましい限りです。
しかし、こうして今、書いているだけで言葉にならない、平安に与っているのです。
いつも偉そうに、”思いを超えなければならない!”、などと口幅ったいこと言ってますが、私はいつもいつもその思いのがんじがらめ地獄に苦しんでいたのです。
そういう思いも悪しき欲望も次から次に起こってきて、自分で抑えることが出来ません。いや、今でもそうなんですよ!
だけど、その状態だけに閉じ込められることは無くなりました。思いを超えた世界が開かれ、そこから恩寵の光が差し込むではありませんか!
又、ものの本当を知るとは一体どういうことなのか、目の当たりにするとはどういうことなのか?...いつも私の前には分厚いベールのようなもので覆われていて、直に見る、触るということが出来ない感じしかない...どんなにその向こうにあるものにまみえたいと望んだことか!
だが、今、ここに向こうの方から臨んでくるものをアリアリと感じているのです。
これはささやかな救いかもしれないが、見方、感じ方を変えれば、あるいは大きな救いと言えるかもしれません。
何にせよ、このことを記さずにおれません。私一人のために!
こんな世捨て人の、浮き世離れした話など誰にも信じてもらわなくてもよい!
元より私一人の身に起こった、与ったこと...人がどうのこうの、人と比較して、上だの下だののことは知ったこっちゃないではないか?
オンリーワンの私に起こった、与ったことなのです!
このことを伝えずにおれません。
誰が読み、理解するのかあずかり知れないことだけれど...
私にあったことは、私だけにしかない、などと何で言えようか!
私一人...それは、一人であってもこの私だけのことではないのです(?)
私は私を超えたものと共にある!
それが私のささやかな、あるいは大きな救いの中身だったのです!
私は人が如何に悟るとか救われるか、ということは知らないのです。
世界が平和になるのかどうかということも!...
まして、自分が悟っても救われてもいないのに、私が人を世界を救うなどというのはおがましい限りです。
しかし、こうして今、書いているだけで言葉にならない、平安に与っているのです。
いつも偉そうに、”思いを超えなければならない!”、などと口幅ったいこと言ってますが、私はいつもいつもその思いのがんじがらめ地獄に苦しんでいたのです。
そういう思いも悪しき欲望も次から次に起こってきて、自分で抑えることが出来ません。いや、今でもそうなんですよ!
だけど、その状態だけに閉じ込められることは無くなりました。思いを超えた世界が開かれ、そこから恩寵の光が差し込むではありませんか!
又、ものの本当を知るとは一体どういうことなのか、目の当たりにするとはどういうことなのか?...いつも私の前には分厚いベールのようなもので覆われていて、直に見る、触るということが出来ない感じしかない...どんなにその向こうにあるものにまみえたいと望んだことか!
だが、今、ここに向こうの方から臨んでくるものをアリアリと感じているのです。
これはささやかな救いかもしれないが、見方、感じ方を変えれば、あるいは大きな救いと言えるかもしれません。
何にせよ、このことを記さずにおれません。私一人のために!
こんな世捨て人の、浮き世離れした話など誰にも信じてもらわなくてもよい!
元より私一人の身に起こった、与ったこと...人がどうのこうの、人と比較して、上だの下だののことは知ったこっちゃないではないか?
オンリーワンの私に起こった、与ったことなのです!
このことを伝えずにおれません。
誰が読み、理解するのかあずかり知れないことだけれど...
私にあったことは、私だけにしかない、などと何で言えようか!
私一人...それは、一人であってもこの私だけのことではないのです(?)
私は私を超えたものと共にある!
それが私のささやかな、あるいは大きな救いの中身だったのです!
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