「神と各自とのあいだには、それにしかないかかわりがあって、それは神だけがお分かりになっている秘密を打ち明けて下さるのであり、そしてそれは、各自のもっとも深い内奥に与えられたたまものに応じて独特なものなのです」
(モーリス.ズンデル「日常を神とともに」/女子パウロ会刊)
私はここで、今まで周りの人たちに秘されていたことを惜しみなく(?)開示してきました。秘とはその字のごとく、必ず示されるものなのですi
でも、私個人に関するもので、どうしても明かされない秘密ってものもあるのです。これは明らかにされる必要の無いことだからです。おそらく永遠の神秘でしょう。
"神のみぞ知る"...(ああ、もうこれを書くだけで全身心が震えてきそう...)私は言葉の真実の意味でこう言っているのですi
この世の誰一人としてこの秘密を知っている人は居ません。私の神以外には...
我が神、我が主...それは私にとり唯一絶対のものです。汝以外に神は居ないi..."神とはこうこうこういうもので..."、などと抽象的に他に向けて説明されるような神など紙切れのようなものではないかi
我が神はこの私だけに、私の知らない、私自らからはどうしても知ることの出来なかった秘密を開示、啓示されたもうたのです。
他の誰でもない私だけのために...私以外には代わりが効かない...我が神がそうであるように、私は唯一無二のものだから...
神に人格が有るか無いかについて、抽象的に論じられたりします。いや人間の人格というものですら、ある方面では否定されてしまうようです。
もう、他人が挙げつらう抽象論などどうでもいいです。我が神と私との関わりこそがパーソナル(人格的)なものなのです。ここに我が神と私だけの秘密が隠されているのです。
逆説的ですが、そこには何一つ隠されたものはありません。すべては吹き通し、開けっ広げ...我が神は私の全てを見透かしているのです。
私自身が感じていたように、これは神の裁きというものと隣り合わせのものと言えます。
しかし、この恐怖の幕が開かれるや...救い、ゆるし、即ち愛以外の何ものも無かったのですi
"神は宇宙の法則だ、一神だ、多神だ"、とか神を他人行儀のように見ているものにはこの消息は絶対に分からないでしょう。
世に人格的関係と言われているものがあります。私は、この我が神との交流をおいて、そういうものを目の当たりにしたことがありません。
神的なものが生きて働かないところに、そういうものが生まれるはずなど無いのではあるまいか?
神の、人間の格というものが如何なるものなのかは分かりません。少なくとも人格として通常思われている、各人の後天的な性格といったものは、神との交わりの中では"消えてゆく姿"になってしまうのは確かなことです。
しかし、その中で秘密のベールが剥がれて、顕わとなる唯一無二の私の存在は否定しようのないものです。
人格の格とは、ある種の"核"といったものではないでしょうか?
それ無くして、私は私たり得ず、全てのものも又然り...それにあって現実在らしめられ、顕わならしめるもの...そこには神の核みたいなものがあるだけなのでしょう。
そこに言葉にならない、確信、核信がある...
私は今、これを私だけのために書いています。
ということは、これは他の誰でもないあなたのためでもあるのですi
その秘密はあなたの神が明かしてくれることでしょう。
(モーリス.ズンデル「日常を神とともに」/女子パウロ会刊)
私はここで、今まで周りの人たちに秘されていたことを惜しみなく(?)開示してきました。秘とはその字のごとく、必ず示されるものなのですi
でも、私個人に関するもので、どうしても明かされない秘密ってものもあるのです。これは明らかにされる必要の無いことだからです。おそらく永遠の神秘でしょう。
"神のみぞ知る"...(ああ、もうこれを書くだけで全身心が震えてきそう...)私は言葉の真実の意味でこう言っているのですi
この世の誰一人としてこの秘密を知っている人は居ません。私の神以外には...
我が神、我が主...それは私にとり唯一絶対のものです。汝以外に神は居ないi..."神とはこうこうこういうもので..."、などと抽象的に他に向けて説明されるような神など紙切れのようなものではないかi
我が神はこの私だけに、私の知らない、私自らからはどうしても知ることの出来なかった秘密を開示、啓示されたもうたのです。
他の誰でもない私だけのために...私以外には代わりが効かない...我が神がそうであるように、私は唯一無二のものだから...
神に人格が有るか無いかについて、抽象的に論じられたりします。いや人間の人格というものですら、ある方面では否定されてしまうようです。
もう、他人が挙げつらう抽象論などどうでもいいです。我が神と私との関わりこそがパーソナル(人格的)なものなのです。ここに我が神と私だけの秘密が隠されているのです。
逆説的ですが、そこには何一つ隠されたものはありません。すべては吹き通し、開けっ広げ...我が神は私の全てを見透かしているのです。
私自身が感じていたように、これは神の裁きというものと隣り合わせのものと言えます。
しかし、この恐怖の幕が開かれるや...救い、ゆるし、即ち愛以外の何ものも無かったのですi
"神は宇宙の法則だ、一神だ、多神だ"、とか神を他人行儀のように見ているものにはこの消息は絶対に分からないでしょう。
世に人格的関係と言われているものがあります。私は、この我が神との交流をおいて、そういうものを目の当たりにしたことがありません。
神的なものが生きて働かないところに、そういうものが生まれるはずなど無いのではあるまいか?
神の、人間の格というものが如何なるものなのかは分かりません。少なくとも人格として通常思われている、各人の後天的な性格といったものは、神との交わりの中では"消えてゆく姿"になってしまうのは確かなことです。
しかし、その中で秘密のベールが剥がれて、顕わとなる唯一無二の私の存在は否定しようのないものです。
人格の格とは、ある種の"核"といったものではないでしょうか?
それ無くして、私は私たり得ず、全てのものも又然り...それにあって現実在らしめられ、顕わならしめるもの...そこには神の核みたいなものがあるだけなのでしょう。
そこに言葉にならない、確信、核信がある...
私は今、これを私だけのために書いています。
ということは、これは他の誰でもないあなたのためでもあるのですi
その秘密はあなたの神が明かしてくれることでしょう。
とにかく、親愛を向けるものに神は、ほっておくことは出来ないと思いますよ。
辛い。。。
と言うのが今の本音です。