人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

始めにあるもの

2020-12-24 12:20:24 | キリスト教関連
「私たちは、神を知ろうと人間の側からいくら努力しても、神の側から御自分の意思を示し、語りかけて下さるのでなければ何も分かりません。...神の化身、キリストを見て、私たちは神の自己表現を拝し驚嘆するのであります」
(手島郁郎「ヨハネ福音書講義」/手島郁郎文庫刊)

「始めに言葉ありき...」(ヨハネ福音書第一章)
私がいつも言っていることは、この言葉に集約されると思います。
言葉...これはしかし、何とつまずきとなることでしょう...それは聖書の"みことば"のように解され、始めにこの言葉を信じなければならないとしたら、"始めに聖書の言葉、私たちの観念ありき"、ってことになってしまいます。それで、一体何が始まり、開かれるのでしょうか?
この言葉の原語は、ギリシア語の"ロゴス"です。これなくして何も始まってこないもの...始めにこのものがあったのですi
こんな命と同じくらい大切なものであるにも関わらず、適当な訳語が無いらしい...だから文語では"道ありき"というのもあるのです。
私は専門でないので、詳しいことは分かりませんが、このロゴスから"表れ出る"ものというヒビキを感じます。
そして、さらに肝心なことは、手島先生がいつも述べていたように、それが私たちに直接関わり、タッチしてくるものだ、ということなのですi 
だから、"ああ、ここに我々の思いを超えた神的なものが生きてハタライて下さる..."ということが分かるのであり、そうでなければ神といっても、漠然と人伝に聞いたことや、書かれてあることを思い描いているしかならないでしょう。
ロゴスとは神の自己表現、自己顕現に他なりません。
我々日本人は"言霊(コトタマ)"という言葉を知っておりますが、さすがに先生はロゴスにこの漢字を当てているのですが、こっちの方がはるかに霊なるもののヒビキが伝わってきます。
この始めにあるものの消息は何も、聖書、キリスト教に限ったものではありません。
誰よりも玉城康四郎先生が明らかにしたように、仏教はブッダの修業努力から開かれたのではなく、形なき命~ダンマの顕現によって開かれたのです。
老子は又、"名の無い道(タオ)は天地の始めであり、名(ロゴス)は万物の母である"、とこのヨハネ伝に通ずるようなことを伝えています。
イエス、ブッダ、老子...古の道は"始めにあるもの"を伝えているのです。
ただ、イエスの道においては、より神の自己表現の様が、"人の子"を通してと具体的に表されていると言えるでしょう。
イエスの人格的表れは、我々一人一人の人格と相即されるが如くです。
ともあれ、こうした"始めにあるもの"が、我々から失われてしまったことにより、始めに思われた自分があり、そこから数多の思い思いの信仰や修行方法が生まれるに至ったのでしょう。
思われた自分が信仰し、修行をして、幸福や神的な力を得ようとばかりに...
しかし、始めに神的な表れがあったのですi 始めにあったということは、それは我々が求める以前から与えられてあった、ということでしょう。
これは受け入れるしかありません。ただ、受けるということがあるだけです。
といって、"受けよう、受けよう"、と力むことじゃないですよi "始めにあるものは与えられているのだ"、と信じ込もうとすることでもありませんよi
"始めにあるもの"をチョイと意識するだけで、何かが始まってきて、もう、それを受け入れるっきゃないって感じになってきたでしょう?
クリスマスだし...
この自粛モードのクリスマスこそは、始めにあり、失われたものがよみがえる絶好の機会が与えられていると言えるでしょう...。
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