精神的な道を歩んでいる人で、"これは、真我からの思いなんだろうか、それともエゴからのものなんだろうか?"ということを"思った"ことの無い人は多分居ないでしょう。
エラそうに語っているどっかのブログ主は、真我の視点で語っているのか、それとも..."んなこたあ、分かりきっているではないかi 私は神と一つの境地から語っているのである"と、思いたいのだが...そう、私なりの視点、感じ方から語っています。
それはエゴ、自我からに決まっています。もう、そんなことは"海水ってのは水で成っているのか、塩で成っているのか"と、問うているくらい当たり前のことです。
色々な視点があるということは、みんなエゴで成っているということでしょう。全くお互い様なことです。
だから、"ああでもない、こうでもない"と思い巡らしているのは、エゴからということも言うまでもないことです。
それを、例えば"あ、ジャッジしてる、二元的になってる...それはエゴですi"、何て殊更に、執拗に暴きたてたりするのは、きっとエゴの上塗り?みたいなもんじゃないでしょうか?
この二元的相対世界は、かくの如くエゴが支配しているのです。
"それはエゴですi"、もう、ええがな...そういうものがズシッと我が身を苛み続けている、エゴ地獄にハマッってるような人も居ることでしょう。
でも...それはエゴに気付いているってことでもあります。これがもっとも肝心なことなんじゃないですか?
気付けることに救いがあります。そのどうにもならない現実に光が差し込むのです。
それがありのままの自分を認める、受け入れるということでしょう。
"そうだ、この俺はエゴの固まりだ、どうともならん、だから神よ、どうにでもしやがれi"と、神的なものに噛みつく、エゴの権利は等しく与えられているのです。
私はいつも、"自分は自分で気付くのは難しい...他者から気付かされるもの、自己観察でなく、照明されるもの"と言ってますが、この重要な意味は、他者という認識が蔑ろにされる時、限界ある自己が無限なるものに取って代わってしまう、という致命的な事態に陥らないがためなのです。(というより、実際そのように導かれる訳ですが...)
エゴは神に成り代わろうとする...いや、神すらも超えようと、際限無く上り行こうとするものです。
そして、無限なるものを得ようと、取り込もうとして、かえって"無限なるものと共にある"という恩恵を失うに至ってしまうのです。
あの超絶的な光に射ぬかれることは、まさに自己、エゴの限界性、エゴのガンジガラメの突破(それで無くなるという訳ではない)を示されることに他なりません。
エゴは際限無く増長しようとする半面、一転してまるで神の親衛隊になったかのように、エゴを敵視し、無きものにしようと怨敵に成り済まし、結局はその増長をより複雑にしながら拡張して行くものです。
しかし、自らのエゴ性の自覚、エゴだらけの密閉空間に風穴が開けられることで、仲良く一生付き合いが出来そうです。
そこに光が当たることで、それにまみれていたものから離れ、向き合えることが出来るのです。
今日、至るところで、行き過ぎた我執の猛威を見せつけられている中、もっとも求められるべきは、エゴとの和解ではないでしょうか...
"君は君が思っているほど悪くないよi いや、君のお陰で僕は僕の世界で楽しく遊ぶことが出来るんだ...ありがとうよi"
エラそうに語っているどっかのブログ主は、真我の視点で語っているのか、それとも..."んなこたあ、分かりきっているではないかi 私は神と一つの境地から語っているのである"と、思いたいのだが...そう、私なりの視点、感じ方から語っています。
それはエゴ、自我からに決まっています。もう、そんなことは"海水ってのは水で成っているのか、塩で成っているのか"と、問うているくらい当たり前のことです。
色々な視点があるということは、みんなエゴで成っているということでしょう。全くお互い様なことです。
だから、"ああでもない、こうでもない"と思い巡らしているのは、エゴからということも言うまでもないことです。
それを、例えば"あ、ジャッジしてる、二元的になってる...それはエゴですi"、何て殊更に、執拗に暴きたてたりするのは、きっとエゴの上塗り?みたいなもんじゃないでしょうか?
この二元的相対世界は、かくの如くエゴが支配しているのです。
"それはエゴですi"、もう、ええがな...そういうものがズシッと我が身を苛み続けている、エゴ地獄にハマッってるような人も居ることでしょう。
でも...それはエゴに気付いているってことでもあります。これがもっとも肝心なことなんじゃないですか?
気付けることに救いがあります。そのどうにもならない現実に光が差し込むのです。
それがありのままの自分を認める、受け入れるということでしょう。
"そうだ、この俺はエゴの固まりだ、どうともならん、だから神よ、どうにでもしやがれi"と、神的なものに噛みつく、エゴの権利は等しく与えられているのです。
私はいつも、"自分は自分で気付くのは難しい...他者から気付かされるもの、自己観察でなく、照明されるもの"と言ってますが、この重要な意味は、他者という認識が蔑ろにされる時、限界ある自己が無限なるものに取って代わってしまう、という致命的な事態に陥らないがためなのです。(というより、実際そのように導かれる訳ですが...)
エゴは神に成り代わろうとする...いや、神すらも超えようと、際限無く上り行こうとするものです。
そして、無限なるものを得ようと、取り込もうとして、かえって"無限なるものと共にある"という恩恵を失うに至ってしまうのです。
あの超絶的な光に射ぬかれることは、まさに自己、エゴの限界性、エゴのガンジガラメの突破(それで無くなるという訳ではない)を示されることに他なりません。
エゴは際限無く増長しようとする半面、一転してまるで神の親衛隊になったかのように、エゴを敵視し、無きものにしようと怨敵に成り済まし、結局はその増長をより複雑にしながら拡張して行くものです。
しかし、自らのエゴ性の自覚、エゴだらけの密閉空間に風穴が開けられることで、仲良く一生付き合いが出来そうです。
そこに光が当たることで、それにまみれていたものから離れ、向き合えることが出来るのです。
今日、至るところで、行き過ぎた我執の猛威を見せつけられている中、もっとも求められるべきは、エゴとの和解ではないでしょうか...
"君は君が思っているほど悪くないよi いや、君のお陰で僕は僕の世界で楽しく遊ぶことが出来るんだ...ありがとうよi"
エゴを敵視・排除しようとするニュアンスで書く人っていますよね。ついでに「思考」とか、過去未来の時間経過も、悪者みたいに扱ってる人もね(笑)
エゴ(自己中心・我欲)思考・記憶・予測とかって、自我の活動領域での働きですよね。エゴは自他を区別する、自己防衛、自己発展させる為の大切な役割を担っていますので、うまく利用すること(和解)をすすめることが、適切であると私も思います。
いつもながら、感性が近いですね(笑)