人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

思うことと起こること

2023-07-16 09:45:17 | 求道、探究
スピ関係のネットを見ていると、時折”思われた世界”のことと、”思いを超えた世界“のことを混同して語られているような表現に接することがあります。
例えば、”ありのままの自分を受けいれる“とか、”そのままでいい!“といった言葉などがそうです。
私も度々そういうことを言ったりしますが、ずっと読んでくださる方ならお分かりでしょうが、これは、”思いを超えたハタラキ“を受けること、それに在ることをベースにして言っているのであり、そのことを抜きにしたら話は浮いて、ズレてしまうしかないのです。
大体、思い、為そうとする人間がありのままを受けいれたり、そのままでいることなど出来るでしょうか?...”このままじゃいけない、何かしないと!“ってことになるんじゃないでしょうか?
いきなり不如意な、不幸な事態に見舞われたりでもしたら、普通感情が揺れ動いてしまって、そのままでいい訳なくなるでしょ!
自分の感情にウソはつけません!...しかし、仕事の場とか時と場合によっては感情を抑えなきゃならないこともあるでしょう。”感情的になってはいけないんだ!”、と!
しかししかし、抑えきれない感情の爆発が起こることもあるのです!
これは通常の“カンゲキ!“とか怒り、爆笑もんとか意志力との戦いレベルの問題ではありません。
覚醒体験にはしばしば付きものの、自己の内奥からの感情の爆発(大概は号泣という形で表れる)のことです。
これは起こるのであって、火山の爆発と同様、意志力など吹っ飛んで、誰も止めることは出来ないのです!
そういう事態を前にして、“感情的になるな!、冷静になれ!”、なんていうのは、全くズレた話という他ありません!...そうなったことの無い人間には絶対分からないでしょうが...
こんな場合、ありのままの自分を受けいれ、そのままで在るしかないのです。
これは極端な、分かりやすい例ですが...全く思っていたこと、思っていた自分でないことが起こる!...思いを超えたものに出くわすことで!
こうした爆発的なことは、通常一過性のものですが、そのものを受けたことが心の奥に、意識次元に刻印されることにより、あるいは祈りや瞑想などにより熟成されることを通して、そうした突出した在り様を通らずとも、日常生活のベースとなり、ありのままを受けいれることに“入る“ことも可能になるのです。
どっちみちそれは、“思いを超えたハタラキ“あってのものであるのは言うまでもありません!
このように宗教、スピ界隈では、思い、為そうとする世界と、それを超えた世界との識別があまりなされていないようなのです。
常識では考えられない、不如意な事態がいっぱい起きているというのに!...
起きていることに出くわさないとやっぱり分からないのでしょう?...
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