人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

現臨は一の如し

2023-07-15 09:40:28 | 現臨、ハタラキ
思いを超えたもの、霊なるものの臨在~現臨にある感じとはどういうものか?...これを言い表す慣用語というのが中々見当たらないのです。
普通は、私が居て、そういうものと対峙している、という風に捉えられるものでしょう?
そういう霊的な存在が現れ、私に一つになるように関わって来るのか?...
そりゃ、心霊現象、憑依現象でしょうよ!?
私は一度もそういう実体をもった存在として見たことは無く、私が別人格のようになってしまうことは無いのでして、いやむしろ、そのものにより、私の実存が顕わになる感じになるのです。
一つになるというか、元々私と別在していないものが、顕わにあるという感じです。
いやしかし、一つになる、一体化というのは、二つのものがあることが前提になっている訳だし...
これは、仏教的表現で、小池辰雄先生がキリストとの関係を言い表した、”一如”という表現にもっとも肯かざるを得ません。
現臨にあるとは一の如し...又それは二の如しでもある訳で、これは愛というものがそういうものであるのは言うまでもありません。
自分と一つのものなら何故神とか、自分とは別の何かのことを表さなければならないのか?
それは、この見える現実が二元的な世界だからでしょう。
もし、この一つの私という存在のみに、神と一つであることが帰されてしまうとしたら、それは私が全くこの現実世界を生きるという在り様から離れて、人間存在としての意義を失ってしまうか、この思われた私が、その実私を超えたそのものに取って代わり、その思念世界に完全に閉じられてしまうことになるかどちらかでしょう。
前者の例は極めて稀で、大概は後者の如く思い描いているだけでしょう?...思いは神的なもの無しで、超えられようがないのだから...
神と私は一つ...そのもの無しには、絶対にそんな感じにはなりようがありません!...”私が、自らがそうなるというのは、一種の魔境でしかないでしょう。そうなるのなら、神と自分が二元的に分離したままの方がはるかにマシです。
というか、そういう状態からしか始められないのが普通なんだ!
そして、祈りなどを通して、愛を感じ始めたら一如の現実に入ることになります。
この二元世界で、一なるものを頂く...それがこの現実に生きる我々本来の在り方なのでしょう。
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