人生の裏側

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クエーカー⑤-世にもイイカゲンな瞑想ー

2016-11-09 16:58:06 | 秘教、その他団体
私はある日の東京のクエーカーの集会で、全ての宗教にとって根幹的と思われるようなことを集まる人たちに向けて投げかけた事が有ります。
「もしも、我々の内面に”直接的に”何かメッセージのようなものが示されたとして、それが自分たちの集会で信じられ、伝えられていたものと食い違っていたとしたらどうしますか?」と…
この事はとりわけクエーカーにとっては根幹的な問題であるはずです。そもそもクエーカーというものは教義、教典、儀式などに依拠しない、直接的な道を標榜してきた(所謂)宗派なのですから…ですからよく考えればこの問いかけ自体、意味を成さないとも言えるわけです。
しかしながら私は何度かクエーカーと接して来て、暗黙の裡に形成されていた、(と思われる)クエーカー特有のやり方、慣習というものを感じ取って、そうした発言をしたまでです。
すると…いつものように何か煮え切らない、ナア、ナアとした詭弁やらでこの問題は、いつの間にかスポイルされてしまいました。
私は、”この事を蔑ろにするなど、クエーカーに非ず!だ”などと凄みたくもなるのですが、いつもオカシナ空気になるので、表向きの穏やかな人?に戻って、問題を引っ込めてしまいました。
こうしたことに触れるといつも、まるで私が被告人たちに詰問している検事みたいになるのです。
誰が悪いという訳でも無いのに、責められているように感じてしまうようなのです。
そもそも、直接的な上よりの示し、という事など今のクエーカーには、言い伝えられているお話としては語られることはあっても、例えばその合同礼拝会の最中などで現実に起きてしまうことなど、思っても見ないことなのでしょう。
だからと言って私は別に彼らを責めるつもりなど別に有りません。
ただ一度だけ、許せない気持ちにさせられた事が有ります。
東京の礼拝会の時間というのは、大体一時間と決められていて、時間になったら当番の人が”礼拝を終わります”と告げるのですが、これは如何にも”形式的にやっているのです”と言わんばかりです。
ある礼拝会で、私はその礼拝時間の終わり近くになって、”ジンジン”と催しを感じ始めたのですが、無情の終了の告知によって、強制的に終わらせられてしまった事が有るのです。こんなナンセンスな、罪な事は無い!…その上よりの訪れは二度と無いかも知れないのに…毎週機械的に繰り返されるプログラムとは訳が違うんです! 如何に上よりのものへの意識づけが無いかが分かります。
折角時間を超えたものが臨んできても、時間によってフタを閉められてしまうとは!
この点、大阪の集会のように”そろそろ終わりの時間になりますが、いいでしょうか?”と集会員に促す習わしの方が絶対に正しいです。
東京集会ではしばしば誰かが、”賛美歌を歌いましょう”と言いだすと、皆起立して讃美歌を唱和し出しますが、私は全くそれには応じません。
ノンクリスチャンだから?…それもありますが、これは全く根本的な事で、そういう上よりの促しを受けていないからです。
そうでないものは一切付け足しません!(ただし完全に”抜けて”しまった後でしたら、気が向けば讃美歌でも歌う事もあります)
このように、クエーカーの礼拝会というのは、例えば(それを瞑想と呼ぶとして)深ーく瞑想に耽っていたい向きには、根本的な理解が欠如したところが有ります。ただなーんにも無く無為な時間が過ぎて行くばかりでしょう。(この言葉が私には時間の感覚が無くなって別様に感じたことも有ります!)
ただ私はその沈黙の礼拝そのもの、祈りモドキ、瞑想モドキの”形”そのものについては、これほど自分に適したものは無い、と思いました。
それは、(賛美歌を歌うとか、余計な付け足しの部分はさて置き)、特別なやり方が無い、ということに尽きます! (これは逆説を言っているのです)
これは煩瑣なテクニックなどが介入することなく、心身共に自由で居られるという事です。
だからこそ、私は何度か現臨に捉えられた事が有るのでしょう。
私は何度か集会員に向けて、このように述べた事が有ります。
「このような形なき沈黙の礼拝を何百年にも渡って伝えてきたクエーカーには感謝が尽きません!」
こんな世にもイイカゲンな瞑想を私は知りません。










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