人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神と現臨

2020-05-31 10:48:32 | 
近年流行の悟り系スピでは、"神"という表現はあまり使われません。
非二元ということを主に謳ったりしているので、当然と言えば当然なのでしょうが...
これは、それまでスピ的なことは宗教で説かれてきたものが、人々の心を引き付けなくなったところから生まれたと言えるでしょう。
その宗教においても、神という言葉は安易に、相異なった宗派に応じた、それぞれ分離した神が説かれ、その真態は明かされるどころか、ますます見えなくなってしまったようです。
神というものを持ち出せば、我々はお互いの関係性からも、自分自身からも分離してしまうという思いに駆られるようです。
かくして、神は傍らに追いやられるか、我々の心に押し込められるに至ったのです。
"私はいない、全体しかない"..."そう、誰かが言っていて、それを信じたり、信じなかったりする自分がいるi"...私はいても、いなくても、こういうことは、私か全体かどっちか、という観点での議論と言えるでしょう。
全体という言い方はとても抽象的ですが、連想しやすいのは、複数の個体の集合ー集団でしょうか?...だとしたら、古来からの"個と全体"という、人類永遠の哲学的テーマを形を代えて踏襲しているにすぎないでしょう。個人とか人類とかが存在していたらの話ですが...
この我々のカルマ的な命題は、全く永遠的なものでしょう。その見地からだけでは永遠に帰着出来るとは思えないから...
このことに限らず、我々は、安息の地にたどり着くことは出来ないのではないでしょうか?(少なくとも私は)神的なもの無くしては...
オショー.ラジニーシが「"神は死んだ"と言うが、それはおかしい。神は一度も生まれたことなどないのだから」と言ったのは、けだし名言でしょう。
神は一度も明かされたことはないのです。神は人間の思念に取り込まれ続けていたのです。
神について考えている限り、神は生きてハタラくことはありません。神を信じて何らかの迷い、不安、逸脱が感じられるのなら、それは神の観念を信じていることで、多く信仰とはそういうものでしょう。
神はその思念を突破してダイレクトに我々につながるものです。
あなたが神と共にあるのなら、あなたは幸福でない訳がないi...それは、愛、平安、リアリティと共にある、ということだから...
個と全体という...この如何にしても結びつかないものを巡って、我々はどこにも帰着することなく、相対し、流転し続けたのでした。
神的なものにあって、初めて個にして全体と一つの道が開かれるのです。
我々一人一人の真態も明らかにされなかったのだから、開かれないのも当然のことなのでした。神の真実が明かされたことが無いのだから...
しかし...この世界的規模の日食を切り抜けつつある我々に、神の真理は明かされたのですi
なーんて、そんなことは多分無いだろう...
神の実証は、永遠に"公理"とは無縁でしょう。そんな茶番ごとを繰り返してきたのが、宗教、精神世界の歴史じゃないですかi
私はこのブログで、多く神的なことを"現臨"と呼び習わしてきました。"現実に臨むもの"ということです。
それは、仮想現実にしか適応されない、所謂信仰とは違うのでして、一人一人の具体的な現実に顕わになるものなのです。
このコロナ禍を巡って私にも何が現実で、何が夢なのか、てんでに分からなくなることに沢山見舞われました。
このこと自体が我々が仮想現実に生きており、それがグラつき出したということを物語っているのではないですか?
それと同時に現実に目覚めようとしているということでしょう。
いよいよ、太陽を覆っていた黒い影は過ぎ行き、現実に臨むものが顕わになってくるのではないでしょうか?


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