人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神の国が来たように

2018-07-04 17:39:50 | 雑感
私がいつも書いていることは、例えばスピ的なこととの関わりから、自分の精神が高まってきて、霊的進化らしき道を段々上っていくようなことや、その関わりから"いつもこんなに幸福を手にすることが出来るんですよ~"...
なんてーことじゃないのですi お分かりですよね。
私はすっかり子どもの頃から成長が止まってしまったようですし、トシがトシなだけにこれから先も進歩の見込みなどありません。
リア充生活なんてこともまるっきり縁が無く、ただ自己満足だけの貴族趣味(見かけ倒しのもので、全く気分的、雰囲気的なものなので、ほとんど金がかかりません)みたいなものに淡い幸福を感じてるだけなのです。
だからねえ、スピ的なことに関わったって、良いことなんてちっとも無いんじゃないですか?
この通り、私の人生はこのチッポケな私だけで完結してしまうのなら...ああ、想像するだに呪わしいこと..."年取る前に死んじまいたい"(もう、取ってしまったが..."My Generation"By The Who)
しかーし...私がブログ開設当初から言いつづけていたこと...それは私が何かをしたから、私が進歩したから、幸福を手にしたから、どうとかって事じゃなくて、視点をちょっと変えれば、思われたままじゃない別の人生、世界が拡がってくるということなのです。
私はブログを書き続けることで、度々新たな気付きを受けることもあるのですが、それは私が聡明になったからでは無く、気付きをもたらすハタラキが、光を当てるものの輝きが一段と増してきているということではないでしょうか?
そのもの無くして気付きも、目覚めも、悟りもある訳無いのです。
そして、金も能力もそれを得ようという気力すらない私はいつも幸福をGet出来ません。
だけど、それをGet出来なくても、幸福は自ずとやってくる...どうしたらいいんだi
このように、自分がどうとか、こうとかいうことを書くことは促されていないのです。
あたかも、"神の国が来た"かのようなことを書くように促されているのです。
要するに"てめえのこた、どうでもいいから、あの言葉に言い表せないハタラキ、光に与っているままのように書けi"、ということです。
だから、どうしても自分がどうしてそういうものに与れるようになったかとか、特別な教えとか方法について書き表すことが出来ません。
そういうものは、あの普ねき光の中に照らされるまま、在らしめられることのうちに、溶け入ってしまうようなものだからです。
信じたり、信じさせられたり、目的に向かってトライしたり、到達するということがありません。
こう言うと、例えば"私はキリスト教徒ですが、それはその普遍の光の中では消えてしまうんですか?"と思われる人も居るかもしれません。
んなことは多分無いでしょう。消えるか残るかはその人次第でしょう。すべてを見透す裁判官のようなものが決める訳じゃないのです。
ただ、言えることは如何なる宗教でも普遍の光の元に映し出されるということです。
おおよそ邪教でもない限り、自分に縁のある宗教なら多分より広く、深い理解がもたらされるでしょう。
光が照らされることで、裁きの如く映し出されるものと言ったら、多分独善的、排他的、支配的、依存的な傾向、カルト宗教へとつながるような精神的傾向でしょう。
それは自ら普遍の光を拒み、自らを隔離された場所へと追いやるような心の有り様だからです。
私がどうして時折、宗教やスピについてその偏った在り方について呟いてしまうのかということも、この辺に反応してしまうからでしょう。

おやおや、まだそれが来てもいないのに、あたかも来たかのようなことを書いてしまいました。んー...何故なんだろう..."如来"さんに聞いてみよう...



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