人間には誰しも知識欲ってものがありますね。
私は、ここでそうした頭でっかちの、知識ばかりに偏向した在り方に対し、随分批判的なことを書いてきたように思います。
とはいえ、自分で言うのもオカシイのですが、スピ関連でも読書量も半端ないし、相当な知識を持っている方だと思いますよ。何の役に立つんだか知りませんが...
しかしそんな私が大学3、4年くらい前まで、本など丸一冊読んだこと無いってんだから分からない...もし、小さい頃から本の虫だったら今頃は大学教授になってたかもしれません(笑)
それが、モーレツに知識欲が沸いてきて、読書をするようになった切っ掛けは、当時入っていた宗教教団の内紛とかがあったりして、信仰がグラツイたためです。
私はそれまでその教団の教え以外に真理は無いのだ、と思い込まされていたのです。その心根には恐怖が張り付いていたのですが、その私の暗黒時代に光が差し込み、啓蒙的、人文的な空気が漂い始めたという訳です。(それまでの私は、どうも別人だったように思えるのですが...)
といっても初めは、そんなに沢山の本を読んでた訳でもなく、J.チャーチワードのムー大陸もの、E.V.デニケンの宇宙考古学ものくらいしか思い付かないのですが、それでもにわかに視野が広がった感じがしたものです。
それと共に徐々に自覚し初めたのが自由感というものです。これはホントに、ホントーに得難いものだi...何かのドグマの観念の奴隷になりたがるヤツの気が知れませんi...今だからエラそうに言ってるんですけどね...
ところで、私はそれら異端考古学にハマってたかというと、そんなことはなく、数ヶ月でその古代人や宇宙人などの生活のベースになっていたであろう、宗教的な道に傾くのは、もう誰かの予言通りのことなのでした。
それが五井先生の著書との出会いであり、それはこの読書への関心抜きにはあり得ず、そのことでいっそう読書熱に火がつき、精神的な道を探求する契機となったのです。
そして私の本格的なルネッサンス時代はここから開かれたのでしたi...といってもそれは一年ぐらいしか続かなかったのですが...
所謂神秘的なこと...霊界とか、神の実在、超能力や前世、未来予言のことなど、私の回りにもそういう神秘的な実体験を語る者もおりましたが、ある時から全くそういうものが色褪せて感じるようになったのです。
そういうものは全て人伝に聞かされたもの、知識として理解したつもりになっているものばかりではないか?...
そして又、そういう霊感的な人間の、巧みに人心を操作するような心的傾向も知覚するようになりました。"いつまでもこういう処に留まっていてはならないi"
そうした否定的な思いもあったためか、自分自身が霊感的な道を求めるという方にも赴きませんでした。
そんな時過らされたことは、その間五井先生や手島先生の書き物を読んで、思わず涙が溢れ出てきたことだったのです。
"人伝に聞いたことにはリアリティが何も感じられない、頭脳知を超えた、リアルなものとはああいうものではなかったか?"
これはその後もずっと私の中で息づいているものなのですが、そうした縁に恵まれたことも、知識を読書に求めることが端緒になっていたのも確かなことです。
私にはとにかく狭い観念地獄から抜け出すことが先決だったのです。それには知識を外に、広く持つという姿勢が役に立ったということです。
知識を求めること自体勿論悪いことじゃありません。それだけを詰め込んだり、外からのものばかりに振り回されてたってしょうがないと言っているのです。
要はいつも意識を開かれた状態にしておくことが肝心な訳ですが、自分がそこで不自由で、苦しいと感じなければ何も開かれないことは言うまでも無いでしょう。
私は、ここでそうした頭でっかちの、知識ばかりに偏向した在り方に対し、随分批判的なことを書いてきたように思います。
とはいえ、自分で言うのもオカシイのですが、スピ関連でも読書量も半端ないし、相当な知識を持っている方だと思いますよ。何の役に立つんだか知りませんが...
しかしそんな私が大学3、4年くらい前まで、本など丸一冊読んだこと無いってんだから分からない...もし、小さい頃から本の虫だったら今頃は大学教授になってたかもしれません(笑)
それが、モーレツに知識欲が沸いてきて、読書をするようになった切っ掛けは、当時入っていた宗教教団の内紛とかがあったりして、信仰がグラツイたためです。
私はそれまでその教団の教え以外に真理は無いのだ、と思い込まされていたのです。その心根には恐怖が張り付いていたのですが、その私の暗黒時代に光が差し込み、啓蒙的、人文的な空気が漂い始めたという訳です。(それまでの私は、どうも別人だったように思えるのですが...)
といっても初めは、そんなに沢山の本を読んでた訳でもなく、J.チャーチワードのムー大陸もの、E.V.デニケンの宇宙考古学ものくらいしか思い付かないのですが、それでもにわかに視野が広がった感じがしたものです。
それと共に徐々に自覚し初めたのが自由感というものです。これはホントに、ホントーに得難いものだi...何かのドグマの観念の奴隷になりたがるヤツの気が知れませんi...今だからエラそうに言ってるんですけどね...
ところで、私はそれら異端考古学にハマってたかというと、そんなことはなく、数ヶ月でその古代人や宇宙人などの生活のベースになっていたであろう、宗教的な道に傾くのは、もう誰かの予言通りのことなのでした。
それが五井先生の著書との出会いであり、それはこの読書への関心抜きにはあり得ず、そのことでいっそう読書熱に火がつき、精神的な道を探求する契機となったのです。
そして私の本格的なルネッサンス時代はここから開かれたのでしたi...といってもそれは一年ぐらいしか続かなかったのですが...
所謂神秘的なこと...霊界とか、神の実在、超能力や前世、未来予言のことなど、私の回りにもそういう神秘的な実体験を語る者もおりましたが、ある時から全くそういうものが色褪せて感じるようになったのです。
そういうものは全て人伝に聞かされたもの、知識として理解したつもりになっているものばかりではないか?...
そして又、そういう霊感的な人間の、巧みに人心を操作するような心的傾向も知覚するようになりました。"いつまでもこういう処に留まっていてはならないi"
そうした否定的な思いもあったためか、自分自身が霊感的な道を求めるという方にも赴きませんでした。
そんな時過らされたことは、その間五井先生や手島先生の書き物を読んで、思わず涙が溢れ出てきたことだったのです。
"人伝に聞いたことにはリアリティが何も感じられない、頭脳知を超えた、リアルなものとはああいうものではなかったか?"
これはその後もずっと私の中で息づいているものなのですが、そうした縁に恵まれたことも、知識を読書に求めることが端緒になっていたのも確かなことです。
私にはとにかく狭い観念地獄から抜け出すことが先決だったのです。それには知識を外に、広く持つという姿勢が役に立ったということです。
知識を求めること自体勿論悪いことじゃありません。それだけを詰め込んだり、外からのものばかりに振り回されてたってしょうがないと言っているのです。
要はいつも意識を開かれた状態にしておくことが肝心な訳ですが、自分がそこで不自由で、苦しいと感じなければ何も開かれないことは言うまでも無いでしょう。
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