"勝負の三週間"が過ぎた途端、感染者数は倍増、最多数を更新中i
イヤ、全くこのコロナ禍は、人知をあざ笑うかのように猛威を振るう一方です。
というか、人知を超えたものについては、人間は場当たり的な行動を取るっきゃないってことをマザマザと知らしめられているようです。
これはですね、神が人類が目覚めるためにそう仕組んだんですよ。神がコロナを操っているんです。それが神の御心なんです。
...って、そんなこたアタシャ知りませんi
巷では、特にスピ界隈では色々言われているようですけど、どうしてそんなこと直接確かめられるんですか?
その他、天災や戦争など、大きな災難に見舞われることで、ちょっと信仰ごとに関わった人なんかは、神への信仰は揺らぎ、不信感を持ってしまう人も多いことでしょう。
これは、"神というものは、全知全能であり、全ては神の意志通りに動いている"、ということが心根に強く刷り込まれているためでしょう。
ということは、これも数多ある神信仰と同じで、"人間がそう言っている"信仰の一つとも言えるのです。
この信仰には、神が人間にその意志に従わせるために試練を与えている、という教条が付きものなのですが、確かに個人の上にも不幸災難がある気付き、目覚め、救われの契機となることは私の経験でもあることです。
だけど、人によってそのことでもっと悲惨な結果がもたらされる場合もあるのです。ま、人の運命のことは簡単には与り知れないものがありますが...
そしてこれ又、私の経験では、そういう試練など無くても、気付き、救われに導かれることだってあるのです。
要するに意識が神的なものに向かわされ、つながりさえすればいいってことなのです。
上のことは、多くの場合、色々なことに意識が囚われていて、中々そういう契機が生まれないということを言っているのでしょう。この意味で神が試練を与えるってこともあるかもしれません。確かなことは分かりませんが...
全く、確かなことは(それが本当に神から来るのか、どうかはさておき)、神的な愛に捉えられることは、"ああだろうか、こうだろうか、ああ言われてたり、こう言われてたり"なんてもんじゃなく、疑いようのない感覚のものであり、確信に導かれる、ということなのです。
たとえ、現状がどんなに人が不幸に思われていることになってようと、それで幸福でない訳など無いのですi
又々、私の経験でもこれはよくあることなのですが、そういうことに導かれて、微熱など風邪の症状が長いこと続くとか、健康を損なうことになったりすることもあるのです。
だけど、そうした表層の状態の奥にずっと愛、平安といったものが息づいているのが感じられて、その状態にあまり囚われてなくなってしまい、そういうものも一連の恵みに依るものという感じがしてくるものです。
私が初めて著しい爆発的な目覚めに与った時などは、それまで強い発熱、頭痛に見舞われていた(これをクンダリーニの上昇とかと結びつける向きもある)のですが、もう、そういう苦しみなどは、想像を超えた歓喜によって追いやられてしまったのでした。
私が神的なことについて、直接知り得ることというのはこういうもの(イヤ、全て直接知り得るものはこういうものしかない、というべきか?)で、その他のあれこれのことは不確かなものなので、想像するしかないのです。
神は本当に全知全能なのか、どうかは私は知りませんが、少なくとも神の愛というものは、私のすべての生の根本であり、オールマイティなものであるのは確かなことなのです。
神的なものについての、確かなことと不確かなことは、混同しないでハッキリさせることが、他人事でない、私とあなたの人生に大きな意味を持つことでしょう。
イヤ、全くこのコロナ禍は、人知をあざ笑うかのように猛威を振るう一方です。
というか、人知を超えたものについては、人間は場当たり的な行動を取るっきゃないってことをマザマザと知らしめられているようです。
これはですね、神が人類が目覚めるためにそう仕組んだんですよ。神がコロナを操っているんです。それが神の御心なんです。
...って、そんなこたアタシャ知りませんi
巷では、特にスピ界隈では色々言われているようですけど、どうしてそんなこと直接確かめられるんですか?
その他、天災や戦争など、大きな災難に見舞われることで、ちょっと信仰ごとに関わった人なんかは、神への信仰は揺らぎ、不信感を持ってしまう人も多いことでしょう。
これは、"神というものは、全知全能であり、全ては神の意志通りに動いている"、ということが心根に強く刷り込まれているためでしょう。
ということは、これも数多ある神信仰と同じで、"人間がそう言っている"信仰の一つとも言えるのです。
この信仰には、神が人間にその意志に従わせるために試練を与えている、という教条が付きものなのですが、確かに個人の上にも不幸災難がある気付き、目覚め、救われの契機となることは私の経験でもあることです。
だけど、人によってそのことでもっと悲惨な結果がもたらされる場合もあるのです。ま、人の運命のことは簡単には与り知れないものがありますが...
そしてこれ又、私の経験では、そういう試練など無くても、気付き、救われに導かれることだってあるのです。
要するに意識が神的なものに向かわされ、つながりさえすればいいってことなのです。
上のことは、多くの場合、色々なことに意識が囚われていて、中々そういう契機が生まれないということを言っているのでしょう。この意味で神が試練を与えるってこともあるかもしれません。確かなことは分かりませんが...
全く、確かなことは(それが本当に神から来るのか、どうかはさておき)、神的な愛に捉えられることは、"ああだろうか、こうだろうか、ああ言われてたり、こう言われてたり"なんてもんじゃなく、疑いようのない感覚のものであり、確信に導かれる、ということなのです。
たとえ、現状がどんなに人が不幸に思われていることになってようと、それで幸福でない訳など無いのですi
又々、私の経験でもこれはよくあることなのですが、そういうことに導かれて、微熱など風邪の症状が長いこと続くとか、健康を損なうことになったりすることもあるのです。
だけど、そうした表層の状態の奥にずっと愛、平安といったものが息づいているのが感じられて、その状態にあまり囚われてなくなってしまい、そういうものも一連の恵みに依るものという感じがしてくるものです。
私が初めて著しい爆発的な目覚めに与った時などは、それまで強い発熱、頭痛に見舞われていた(これをクンダリーニの上昇とかと結びつける向きもある)のですが、もう、そういう苦しみなどは、想像を超えた歓喜によって追いやられてしまったのでした。
私が神的なことについて、直接知り得ることというのはこういうもの(イヤ、全て直接知り得るものはこういうものしかない、というべきか?)で、その他のあれこれのことは不確かなものなので、想像するしかないのです。
神は本当に全知全能なのか、どうかは私は知りませんが、少なくとも神の愛というものは、私のすべての生の根本であり、オールマイティなものであるのは確かなことなのです。
神的なものについての、確かなことと不確かなことは、混同しないでハッキリさせることが、他人事でない、私とあなたの人生に大きな意味を持つことでしょう。
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