人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

本来的な愛

2020-12-26 03:09:34 | 
"神に意識を向ける"といつも言っていますが、私にとって神とは"最愛なるもの"のことです。
人によっては、神と聞いただけで拒絶してしまう人も居るでしょうから、その人なりの最愛なるものに意識を向けると、思いがけない(思いを超えた)善きことに出会えるかもしれませんi
この場合"最愛"と言っているのがミソでありまして、次愛のもの、仮初めのものであってはならないのです。
だから、最愛の人でも、最愛のにゃんこでも、小説やアニメなどの最愛の架空のキャラクターでもいいのですよ。
"そんなもんが神と同列に語られるもんかi"、という声も聞こえてきそうですが、人の目にはどうあろうと、自分がどれだけその対象に愛を向けることが出来るか、ってことが重要なことなのです。
逆に考えて、いい加減なデモ信者のことを思えば理解出来るのではありませんか?
それで、ホントにホント~に最愛のものに愛を向けるとどうなるでしょうか?
自ずと意識がある中心に収斂されてゆく(自分の意志的努力で、意識を集中させることと区別してこう言っているのです)感じにならないでしょうか?
そして、その対象だったものがいつのまにか消えて、自分と一つになる感じになってきやしませんか?
このように、対象を超えるということは相対を超えるということです。これはもう、神的なものと言っているのと同じなんですよi
その対象が何であれ、こうしてそのものに導かれることもあるかもしれないのです。実に神った(死語か?)話ですが...
これは元々与えられている、本来的な愛が呼び覚まされることに他ならないのです。
本来的な愛、抽象的でない、血肉に通う愛、愛そのもの...この一連のプロセス自体が、もうそれに依っていると言ってもいいでしょう。
こちらが、理屈抜きに惹かれてしまうことから始まっているのですから...私がよく、"意識が自ずと向いちゃう"と言っている意味がお分かり頂けるでしょうか?...つまり本来的な愛に捉えられてしまうということなのです。
私の場合、神的な愛に捉えられた、という原体験があるから、こういう通路がすぐ開かれやすい、ということは確かにあるのですが、その"今生"で起きた体験で間の当たりにしたことは、その原体験は私の生まれる前に求められる、ということだったのです。
だからこそ、それは本来的な愛と言い得るのですi
それは自他を超えた愛であり、一人一人に与えられているものに違いありません。
ややこしい究極の悟りだなんだ、なんてことより、このことに目覚めることでどんなに自他の救いにつながることでしょう...。
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