人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

多くの個人的なスピリチュアル

2016-10-18 19:04:14 | スピリチュアル?
カリスマ・ブロガーAさんは、”ランキングのことなどどっちでもいいよん…”なんてフリして、結構その常にブログ・ランキングの上位に君臨していることを強調していました。(笑)
彼はなんでも多くの人に真理を伝えたくて、発信しているらしいです。
”多くの”…不特定多数?…如何にも芸能タレントとかそのプロデューサーみたいな物言いです。
私にしたら全く雲上のはるか彼方、別世界の話ですが、私も一応はこうしたことに足を突っ込んでいる以上、人様に何かを伝えたいという気持ちは持っていますが、正直そんなに目指すところが違うとは思いませんでした。
私が書いているのは、そうですね…”自分のノートに書いている”ようなレベルのものです!(悪いか!)
”全然反響が無くてもへーき”、何て言ったらウソになりますが、たった一人でも共感して下さる方が居たら、書き続けたいという気持ちはホントです。そりゃ一人でも二人でも共感してくれればうれしいですけど、”多くの人のために”なんてことは全く思ったことも無いです。
それにしてもAさん(最近は”O嬢”とのコラボの話はトンと聞かないが…どうしたのだろう…どうでもいいが…)が日ごろ語っていることって、ホントに多くの人に伝わっちゃう話なんですかね?…だからこそキングの座も間近だってことなんですか?
そろそろノンデュアリティの看板もはずされるかも分かりませんが、あれがホントにメジャーな世界、大衆に浸透してしまったら…
”警察の取調室で尋問中のやり取り…「お前がやったんだな、白状しろ!」
「私は居ません!」
供述…「それはストーリー、起こることが起きるだけ…」”
こんなことが現実に行われたら…世界は終了、間違い無し!です。
より多くの人たち~大衆に向けて伝道するのは宗教のプロバガンダなどの話です。
だからといって、別に私は一般多数に向けて、何かを伝えようとすること自体が悪いことだと決めつけるつもりはありません。
そういう役目の人というのも確かに居ます。そういう持って生まれたオーラみたいなので、どういう訳か多くの人間の関心を集めちゃう人。Aさんなどはそういう人なのかもわかりません。このような人はある流行に火を付けたり、また消し去ったりします。(追従する人はご苦労さんなことです)
ノンデュアリティなどが流行しちゃうのは、かつてのサルトルの実存哲学の流行以上の珍現象ですが、どうなりますことやら…
メジャー指向の人というのは、良くも悪くもある時代の兆候というか、一般多数の人間にそれとなーくその時機にもたげ出している、例えばスピ界のある傾向などのイメージを植えつけたりしているのです。だけど、それは私やあなたという具体的な人格でない、一般多数のマス精神のことなので、どこに行くのか、導かれるのか分かりません。気が付けば”ハイル・ヒットラー!”になってしまうような話です。
実は一般多数の精神などというのは、どこにも実在していないバーチャル精神なのですが、これが現世の”数が多いもん勝ち”のようなコモン・センスを作り出しているのです。
こういう多数相手に、到底一般向きと思えないような語り口で、一体何を伝えようとしているのだろう、と感じてしまうのですが…
でも、一方ではその中にも巷の流行とか世の人の声とかバーチャルなものなどに関わっていられなくなって、意識が一歩深部に踏み込むような人も現れて来たりします。不特定にばらまかれた種も、どこで発芽し出すか分からないものです。
こういう事は、どっかの誰かじゃない、私であり、あなたである具体的人間にしか起こらないものです。
あなたが見て、感じて、味わう事が全てなのです。
よく考えてみれば、こういう事は自分のノートに書いているような話じゃないですか!
誰もが皆そうなのです。どっかに多くの人とか、一般人が居る訳じゃない、人間というのはあなたと私しか居ないのではないでしょうか?
この役に立たないブログもどこでどう読まれているのか知る由もありませんが、どの人の表現もそうであるように、一つのサンプルに過ぎないのです。

















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日常とスピリチュアル

2016-10-16 12:20:47 | スピリチュアル
「君のような純朴な人間は、都会生活には向いていない。だから片田舎のこんな自然に囲まれた環境で、新鮮な空気を沢山吸って、純朴な人たちと共に暮らした方がいいんじゃあないかな…」
と、いうようなことをある日、謎の秘教団体D会の関係者から言われたことがあります。
又、都会のスピ関係の知人からは、「あなたは音楽はヒーリング系のものばかり聴いているのでしょう…。どんなのが瞑想に適していますか?、オススメは何ですか?」と…”知るか!”
あのですねえ…なーんも分かっちゃいないんですね…
私はそんなに浮世離れした人間に見えるんでしょうか?…ヨレヨレ気味ながら地味メに、目立たないような恰好を心がけています。いやどう見られるとかはほとんど頓着してないですね。
だから、多分自分では意識してないけど、すごーくマイ・ペースな人間に思われているみたいです。
これが上記のような発言を呼び込むのかも知れません。
私は都会に生まれ、これまでずっと都会の中で生活して来て、今後も多分変わらないでしょう…
好きな音楽は、ロック、ポップス、ジャズ、タンゴ、ラテン歌謡、シャンソン…考えてみればほとんどが都会で生まれたものばかりです。
”ひーりんぐ”…ってえのは、何かのそれ系の集まりの瞑想の時とかで無理やり付き合わされる以外、普段の生活では全く縁がありません。
(瞑想モドキ、祈りモドキに浸っている時は、何一つ余計なものを付け加えないようにしています。言い換えるとそのままでいいということです)
律動、というかリズム感の無い音楽、あの音響テクをフンダンに駆使し、フワフワと日常感覚から浮いたような効果を狙ったようなサウンドは苦手です。
ヒーリングというかスリーピング…睡眠効果はかなりあります。
(最もヒーリング、睡眠効果が高いのは”オルゴール音楽”だと思います。これはいい。人間的な肌触りというものを感じますから…)
私が物心ついた時、私の世界に広がっていたのは、こじんまりとした都会の街並みでした。
夕刻になれば路地裏から猫が散歩に出てきて、それに合わせるように真っ赤な空にはカラスが…そして、どっかから”ピーポー”と豆腐屋さんの笛の音…これがありきたりの日常でした。
このように私の言う都会とは大都会じゃないです。ありきたりの日常と共にある私の時空間です。
何処にでもあるようで、何処にもない…同じものは他では見いだせない時空間…
私はここから離れて、八ヶ岳かどっかの波動の高そうな場所、あるいはインド…はたまた高じて実際にあるかどうかも分からない高次元の世界、アセンドした世界、地球外…に移りたいと思ったことなど一度もありません。(関西に移った際、あくまで都市部に住んで謎の団体に通うという事は目指していましたが…)
何故ならば、ここが私の持前の居場所だから…日常だからです。日常とは置かれた場所、あたえられた時空の事ですね。
自分から敢えて変える必要は起きません。しか―し…私は何度か経験しています。
ありきたりの日常が変容するのを…終わらないはずの日常が終わってしまって、新たな創造の光に包まれたような日常に化せられてしまったのを…
私はこういう時ほど実感したことはありません。”持前に生まれてよかったなあ…”と…
夢想ばかりしている人の別なる理想世界とは、日常の時空とはかけ離れたお花畑のような、ファンタジックな世界のように映るようです。
だが、彼らには具体的なその変容過程というものが欠落しているようです。
それはまるで、この日常世界が丸ごと一端消え去って、突然変異のように理想世界がパッと表れるみたいなことを連想させられます。
その際には、大天変地異のような光景も映し出されているらしい…(こりゃあ、今の内にどっかに逃げる準備をしておかないと…)
だが…私は見た!…感じた!…このありきたりの日常の変容…見たところ何一つ変わっていないように見える…だが何もかもがまるっきり違っているのです。日常の聖化というべきか…このまんまがこのまんまでただ有難い…
一言で言えば、なんてことない日常に”生の灯”がともされたということになるでしょうか?
それは、全く私の主観に過ぎないのかも知れません。
だが、一人、二人と同じ感じを持たれるにつれ、それは”われわれ”の主観となり、公の事実となり、誰も主観とは感じなくなるでしょう…
多くの人は”これがスピリチュアル”という異次元のものに逃げ込みます。
このありきたりの日常の変容こそは、スピリチュアルの目の当たりというものではないでしょうか…。









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ボブ・ディランはいつ出る

2016-10-15 11:15:27 | 映画・音楽など
僕の世界が一挙に開かれた小2の頃、耳に残っているメロディ…
「風に吹かれて」
反戦だの、プロテストソングだの何のことだか分かりゃしない
そよ風に浸っているような美しいハーモニーだった…
歌ってるのは、PPMだって…
作者のことは全く知らない
その暮、ヒットチャートを独占していたビートルズに待ったを掛けたのは…
「朝日の当たる家」
あるアメリカのフォーク歌手の持ち歌だとか…
ジ・アニマルズ…ストーンズより早くブレークしたブルー・アイド・ソウル…
ミックもたじろぐ熱いヴォーカル…
だが、エリック・バードンはジャガーになれなかった…
時代は変わる…
みんな自分たちで曲を作り出していた…売れるのは”おりじなりちい”の時代の到来
一体、誰がやり始めたのだろう…

ボブ・ディランはいつ出てくるのだろう…

中2の頃、初めてニュー・ミュージック・マガジン(音楽雑誌)を読んでみた…
「ロック界のビッグ・スリー…ビートルズ、ストーンズ、ボブ・ディラン…」
ディランって一体誰だ?…そんな大御所なの?
そんな折、ラジオで初めて聴いたディラン…
何だか岡林信康とか吉田拓郎みたいな歌い方だなあ…
気が付けば…日本でも欧米でも色んな歌手があんな風に語るように歌っている…
これがロックの歌ってもんなのか…
一体、誰がやり始めたのだろう…

ボブ・ディランはいつ出てくるのだろう…

高2の夏、僕は子供の落書きのようなジャケットのレコード(ザ・バンド/ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク)を毎日聴いていた…

”光が僕に差し込んで来る
西から東へと
今にも僕は救われるんだ…” (アイ・シャール・ビー・リリースト)

かすれるような声が胸を締め付けるようだ
歌っているのは…リチャード・マニュエル(ザ・バンド)
作者は…あのジャケットを描いたのは…

ボブ・ディランはいつ出てくるのだろう…

これはいい…早速僕のカラオケのレパートリーにしよう…
で、数日後…な、何…
ノーベル文学賞受賞!
”ローリング・サンダー”のような晴天の霹靂!
テレビではプロテスト・シンガー時代の映像ばかり…ディランの亡霊みたいだ
ディランにとって、とっくの昔に…”全ては終わった”(イッツ・オール・オーヴァー・ナウ、ベイビー・ブルー)というのに…

”あの時は老いぼれていたけど、今はもっと若い” (マイ・バック・ページス)

僕は初めてディランに会えたような気がする…
それにしても…

ボブ・ディランはいつ出てくるのだろう…












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”しこう”への道

2016-10-14 18:15:17 | 意識、照明
昨日の記事は、初めてこのブログを読んだ方など、何を言っているのかサッパリ分からないと感じた方も居たかも知れません。(いつもそう感じている? そうでしょうとも…)
思考を超えないと現臨に預からない…安易に信仰にハマらないで自分で考える~思考する…一方では思考停止~”邪魔な思考が止まって結構なことじゃないか!”…ごもっともです。言葉の上では…
この自分で考えるという事には先が有って、自己を超えた照明を受けるという事が重要なのです。それを悟性の光とかで言い表しているのです。
この思考を巡る二つの有り様の感じ方というのは、表現はややこしいですが、もう水と油のようにまるっきり違うものです。
ジンジンとあのハタラキが迫ると、もうデキアイの信仰などの入る余地は無くなります。そっちへの思考の通路はロックされてしまいますから。
どうして、こうしたマドロっこしい事になってしまうのかというと、これまで我々は思考、思念、思惟というものがよく分かってなかったからでしょうね。
何で突如、思考がポカーンと浮かぶのかもよく分からない…その止めかたも分からない…そして何よりその出どころ、源が分かっていないのです。
して、それを言い表す言葉が(私の知る限り)無い!…私は照明、観照するもの(これはこの自己がする訳じゃない)との関連で言っていますが、適切なのかどうか分かりません。
固着した思念に捉われると、この門が開かれなくなるという事です。
そして又、何と多くの宗教、スピ界において、この思考、マインドというものが忌み嫌われてきたことでしょう。
これが私がいつもこの界隈に違和感を感ずる事です。
”考えている”という当たり前のことを、”マインドってーヤツは…”どうとか、こうとか、かえって考えが堂々巡りするハメになったりしています。
修行者などはその機能を止めようとトライすることに余念が無いみたいですね。多分無理に止めようとしたら上記とは違う意味で思考停止になることでしょう…(目出度いことかどうかは分かりません)
何度も言いますように、持ち前、天与のものには何一つ否定されるべきものは無いと言えます。
先の思考の源、現臨の照明の場へと導くものこそは、この思考、思惟だと思います。
思惟が自己へと向かい、自己省察というものにとどまらず、さらには自己を通って、突き抜けてしまう…これは自ずとそう向かわせられてしまうようなものです。
そういうハタラキが有るという事ですね。思惟がその源とつながっている時にそうなるようです。
これは、感性というものと切り離されないものです。というより、思考とか感性とか意識などが別々のものとして働き、そのように捉えるのは、表層的な面での話で、内面へと深まっていくにつれ一連なりになってしまうものです。
そして、このように思考にしろ、自我にしても、それを通して真我に導かれるとも言え、肉体を通して霊的な性質のものにも触れられるなど、お荷物のように感じているものが、実は深みに至る導入口になっているように思われます。
とにかく思いを固めてしまわない事が、精神を活性化させる上でも、神的なものにつながる上でも肝要なことです。
私など自然と身に付いたのですが、心象に浮かんだことを思念で捉えようとしない(精神的な働きの客体化につながる)で、心の内奥に留めておいて自由に遊ばせておけばいいのです。
これを私は”神棚に挙げて置く”と言っています。神的なものに委ねることですね。
真実は神のみぞ知る…。

(関連記事)…「パトス、思惟、人格」







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信仰を超えて

2016-10-13 14:55:19 | 宗教
真宗大谷派は初代清沢満之を初めとして、多くの秀れた宗教哲学者を輩出してきました。
その一人、金子大栄先生は「浄土は観念である」という事を言って、宗門から異端視(異安心)され、追放されてしまったそうです。
観念という表現は微妙ですが、「浄土という世界がどっかに実体としてある」といった、宗教一般に取り巻いている”信仰”という他から権威づけられた城砦に安直に閉じこもってしまう傾向、素朴実在論といったものを乗り越えようとしたのでしょう。
このほか「死後のことは分からない」と言う言葉も残していますが、哲学者として実に良心的な態度だと思います。
宗門の掲げる宗旨の伝統がどうあれ、自己の悟性に照らして”分からないものは分からない”とするのが学的な生き方ではないでしょうか。
これに反して”分からないのに分かったことにしてしまう”信じ込むことで何でも実在することが罷り通るのが、宗教やスピ界なのです。
(それでも最近のスピ界は以前の宗教界の為体に比べればかなり開けてきてはいると思いますが…)
自立した自分が考えて、悟性の光(!)に通されること無く”真実が分かった!”とばかりに決定されてしまうのは、誰かによって、宗門によって”そうだとされている”ことなのです。これでは、いかにも精神的な事が語られてもその実、生きた精神的なものは見るべくも無くなります。
こうした思いの習慣にハマると段々精神も感性も鈍重になっていくのは当然として、”正しいことを信じている”という信念や周囲の”我を出さないでただ信じれば救われるのです!”といった声に迎合するとより一層思いが凝固してしまい、なかなかこの思考停止地獄から抜け出るのが困難になってしまいます。
それでいて彼らは”一歩一歩神に近づいて行きましょう…などと言っています。
段々遠ざかっていくばかりだというのに…
神のことや霊界、死後の世界、前世など、確かめようのないことを”誰某がそう言った”というだけで、無批判に受け入れてしまうことは、思念に捉われる事であって、思念を超えるという、現臨が示現する方に向かわないからです。
言い換えると、意識が中心に向かう事無く、ずっとその周囲を回り続けているという事です。
といっても、意識の中心というのがどっかにあるという事じゃなくて、又そこに意識を集中するという事でも無くて、自ずと意識が中心に凝縮されていくような感じになることを言っています。
これは思念、マインドの凝縮状態が溶ける、解放されることと、パラレルになっているかと思います。
意識が中心に向かう、という事は意識が自己そのものに向かう、という事です。
どっかにおわす神とか霊界とか前世だとかというのは、現つそのものである自己とは何の関係もありません。それは自己が現つから離れて宙に漂っているようなものです。
何で自己そのものから意識が離れてしまうのかと言ったら、信頼していないからでしょう。だから、自分以外の誰かや”教義という神”に容易く依存してしまうのです。
たとえエゴ丸出しだろうと、バカだろうと、チョンだろうと、この自己にとって隠しようの無い、他に変えることなど出来ない自己そのものをおいて、神的なものが、この現実にその実存を開いて現れ出ることなどあり得ない事です。いくら浄土、神の国、地上天国を夢想しようとも…
自分を信じられないものはホントは神仏も信じてなどいないのです!
そして…そうして現つに開かれた示現されたものを通して、あるいは神仏の実感、あるいは人間死後の帰趨されるところ、神の国実現の予感なども与えられるかもしれないのです。
こういう訳で私はそれらのことは否定も肯定もしません。所謂オカルト的な本でも捉われずに読めば、面白く読んでいます。(言葉の奥に隠れているものについて洞察したりすると、”こ、これは…”と感ずることもしばしばです。)
人によって”無暗に神とか霊界とか信じるもんじゃない”、というかも知れませんが、切羽詰まった問題を抱えている人には”神はきっと居ますよ!”と言うかも知れません。彼は少なくとも暇人の空想事よりずっと自分自身と向き合っているでしょうから…

「浄土とは魂の故郷、生の拠り所です」(金子大栄)
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