人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

主の中に

2017-12-21 17:34:21 | 詩的文章
悲しみにある時、怒りに、苦しみに、悩みに、迷いにある時...
人の良心はいつもこう言う......

"いつまでも、こうしてはいられない...
思いを変えなければ...
明るい方に、前の方に、建設的な方に"

されど...
思いはいつもそこにくくりつけられる...
出来るという思いにはいつも重石が据えられる...

どうしようもない絶望に陥っていたある時、私はこのような主の声を聞いた...

"悲しい時には悲しめばいい...
苦しい時には苦しめばいい...
悲しいから悲しんでいる、苦しいから苦しんでいる...
川が決壊して、あふれでる水の流れを誰が止められるだろう...
その悲しみも、怒りも、苦しみも ...
お前の故のみから来るのではない
お前だけで何とか出来るものではない
それに...お前の前は、いつも明るいとは限らないのだ
そして...思い通りにならなければ、思いは新たなお前の負い目となる...
だから...その負い目は...私が受けようi
どこにも向けられない、悲しみ、怒り、苦しみは私にぶつけなさいi
私の中に入れなさいi
私の中で悲しみ、怒り、苦しむがいい
すべてを私の故にそうしたらいい
お前のすべては私の故なのだから...
すべてのお前の悲しみ、苦しみ、悪しきことも私にあって化せられる...
お前の負い目は、別のものになってお前に戻ってくる
そして、お前は知るだろう...
私は光だろうと、闇だろうとお前とともにいることを
闇のままの闇というものはないことを
闇から寂光が帯び始めてくるのを...
悲しいことや苦しいことが悪いことではないのだ
すべてのお前の悲しみ、苦しみとはお前が私から離れているからだ
だから...私はお前の扉をノックし続けているのだi
悲しかったら、苦しかったら...子よi
私を思い出しなさいi"

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神の顕現

2017-12-20 00:03:10 | 現臨、ハタラキ
このブログで私は、ソコハカとなく"隠れていたものが現れる"、"裏が表になる"といった、ムードを漂わせるようなことを書いているのです。
こうして文字に、文章に書き表している事自体が、拙いながらもそういう試みをしている次第なのです。
それは私の意志でもあり、何ものかの促しによるものでもあるようなのです。

ドイツの神秘思想家ヤーコプ.ベーメは、一切の始源の様相について、こう言っています。(真実はそこに如何なる相も形も無いのでしょうが、以下の事柄は到底言葉で言い表し難い消息を伝えているのです)
「神は自己自身のうちにあって、自然と被造物に対する一つの意志もなく、一つの永遠の無なるものとして"無底"である」(恩寵の選択について)
そしてそこから欲求、あこがれ、意志が生じ、そこに無から有へと向かうハタラキというものが起こり、光と闇、歓喜と苦痛といった両極性も生まれてきます。
闇、苦痛...悪の顕現...それはものの本来性からの"離脱"、"破れ"である...それは又無底のうちに隠れた自由の発露...原初よりの自由意志の現れでしょう。
こうした事は、我々の精神の内奥の様相と相応していると言っていいでしょう。又そうでなければ自分自身のこととして理解することも出来なくなります。
ベルジャーエフは、より多くそうした観点から根源的無"深淵"と自由との関連について述べていますが、上記のベーメのそれとは、あるところで重要な差異を見せています。
「根源的自由は、ベーメの場合神のうちにあるのに対し、自分の場合は神のそとにある」「自由は永遠の昔から無の深淵に存在している。故に自由は神によって決定されない」(人間の運命)
ベーメによれば無底も自由、悪の成り立ちも神のうちにあるとされます。すると本来的には我々には自由意志は無く、そこから派生する悪しき事態も我々に帰されることは無いということになるでしょうか? 
この解釈の相違は、そのまま純然たる神秘思想家として生きたベーメと、社会問題などより現実生活とも関わり、所謂実存主義が台頭していた時代に生きたベルジャーエフの違いと言ってもいいでしょう。
何か二元論と非二元論をめぐるテーマみたいですが、どっちがどっちなど考えたって分かりませぬi
ことに神のことや根源のことなど...ただ、いつも好き勝手してるからバカを見てばかりいる、とは言えることです。神の指図など受けちゃいませんi
これはしかし、そう思っている自分が感じているだけで、事実は神的命とともに無ければ寸時も生きることが出来ないのです。
こっちの勝手な思いの世界というのは、神の治外圏なのでしょう。大本の方では一つの意志しか無いようにも感じています。
これに関してベーメは、先の二分化のプロセスについて「一方が無として他方のうちに内在する」と言っています。
つまり、無は無としてとどまりながらも、分離することなく相対、多様に向かうということです。神には無なる神と顕れる神という二相があるようです。
一方、ベルジャーエフには、神と独立した自由なる人間の尊厳性を強調しつつも、「悪の克服は神人キリスト、人間そのものに内在した神人性によってなされる」と述べられ、両者ともそれぞれの理解で"どっちか"に分かたれ得ない消息のことを伝えているのです。

日に日に身に覚え感じるのは、見えざるものの顕れ出ようとする意志です。
それは初めて現臨に捉えられた時、ハッキリと感じられたのです。何か畏れ多くも、あちらの方から"お前が受けたことを証して欲しい"と頼まれたように感じました。
と言っても長いこと、それをどう表していいか分からなかったのですが...
人生というものは、決して一コの個人だけの思いからは分からないものです。所謂精神的覚醒というものも隠れた内なる意志の表れといえるでしょう。
見えざる現臨が顕わになるにつれ、一にして多なる意志がありやかになってくるのを感じています。





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神.自由.悪

2017-12-17 18:06:17 | 
"相次ぐ猟奇殺人、テロ...一向に収まる気配の無い各地の戦火...連日のように報道される社会的不正の露見...一体神は存在しているのなら、何故この世に悪は放任され続けるのか? "

というようなことは、神の存在について考えた事のある人なら、誰でも一度は感じたことがあることでしょう。
それについて様々な観方、感じ方があると思いますが、私は"世界がこのようになっているのは、神は我々を野放しにされているから...つまり我々には自由意志というものが、本源的に与えられているためである"と思っています。
又"善悪というのは、本来無いもので我々の観念の中にしか存在しない"という観方もあるでしょうが、善悪の問題は、これまであまりにも法や倫理、掟といったもので規定され過ぎており、あまりにその具体的な意味が蔑ろにされ続けていたように感じずにおれません。
上からの、傍観的な目線でなく、例えば自分自身に凶事が降りかかった時、どうしてネガティブな感情に苛まれるのか...世の人から悪とみなされることをやり過ぎた結果、著しく身も心も衰弱するに至った...というような事象から見直さなければならないと思います。
つまり、悪というものは、"そうしてはいけないもの"、"許されないもの"という以前に自他ともに何らかの不都合をもたらすものであるはずなのです。
この事が自覚されなければ、ただ学校で、教会、家庭、社会などで"そう言われているから"という理由だけで"決められたコト"を守るだけの、事なかれ主義の主体性を欠いた人間ばかり増やし続けることになるのではないでしょうか? 
これはそれを施行する方も、される方も双方の問題だと思います。
それでも我々はその事を分かっている者も、分からない者も、法の目を誤魔化す者も、あからさまの傍若無人の者も悪いコトをヤル人はヤってしまうことでしょう。それが唯一自由意志を与えられた動物のサガというものでしょう。
悪というものは、このように自由意志の落とし子と言えるでしょう。
自由が無ければ悪も無いのです。
逆に"イイコトをしなさいi"と"決められた善"に自由などありません。

何度か触れているように、神的なハタラキに捉えられる、ということは全くそれまで経験したことの無いような自由に預かることなのです。
それまで自由だと思っていたものは、正しく思われた自由だということが分かります。
思われた自由が雷の如き光により、こちらの全存在を射ぬかれることで奪われてしまうということは何とも逆説的ですが、思いが無化されることで本源的自由が開かれるのです。
それは、どこまでも自由であることが実感されるもので、こちらの自由意志が断ちきられて神に服従させられる、ということではありません。
これは、近頃の自由意志が有るとか無いとかの論議を超えたもので、そこには"超"絶対自由意志とでもいうべきものしか無いようなことですi
そこで、人間は本来自由であることが示されるのですが、それは神からも自由である、ということでもあるでしょう。
如何なるものと言えど、隷属関係からは自由というものは無いからです。
そこに悪というものの発生があります。悪とは本来のあるべき様態からの逸脱なのです。
しかし...神から切り離される時、我々は致命的な不都合に見舞われるという、これ又逆説的ですが不自由を強いられるに至ります。
端的に言えば、生の道が絶たれてしまうということです。神的なハタラキとは命そのもののことでもあるから ...
悪はおそらく他からの断罪、裁きということからは克服されることは無いでしょう。
強制による法でなく、命に根差した法に照らされ、自らその命に外れた自滅の道が示されない限り...
我々の思いを超えた形なき命の顕現がそのことを明らかにしていくでしょう。



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自由と深淵

2017-12-14 17:14:03 | 哲学・思想
「存在以前に至高の自由がある。自由は何ものによっても規定出来ず、無根拠の深淵より生ずる」(ベルジャーエフ)

何事でもそうですが、ものの観方、感じ方というのは人それぞれです。
ことに宗教や哲学、スピなど精神に関わることというのは、主観というものが付きまとう訳だし、ほとんど確証など出来ないことなのです。
然るになんとその界隈には偏った、囚われた見解が多いことでしょうかi
いや、むしろそれが見えないものだからこそ、"確たるものにしないとならない"という熱情に人々を駆り立てるのかもしれませんね。
忘れちゃいけませんi あなたと私の世界には、ゼッタイ(強調しようとすると、ついこう使いたくなるサガi)にあなたと私にしか分からない、通じない、何人も入ることの許されない世界が在るのです。
それは言うなれば絶対的"個"の世界です。そこにはあのウンザリするほど呪わしき人間関係にまつわる、業的もたれ合い、もつれ合いというものはありません。
我々はそこでどこまでも(おそらく神からも)自由になれるはずなのです。
あなたも私も世界や全体の一部としてあるのではなく、自体が世界であり、独立しているのです。
非二元論者が"私という個はいない"と言うのなら、勝手に虚無宇宙に消えて行ってしまえばいいだろうi それも彼の自由なんだから...
いつも言うように、彼らは事の一面をさも、それがすべてであるかのように語っているに過ぎないのです。それも好き好きには違いないが...
そうです。絶対的個の自由が無ければ、誰も好きな事は言えないのですi
私は、この絶対的自由の領域を目の当たりにし、それを何人も入ることの許されないことから"至聖所"と呼んでいるのです。
ウスペンスキーは、彼の"実験"の中で二つの側面を示す心像があったと述べています。
一つは「世界と人生の個々の側面のすべて」であり、これから「全世界の起源、あらゆる観念の起源」を知ったと言い、所謂ワンネス、非二元的な世界のことを伝え、もう一つの側面は「個別のものに関わっていた」としています。
そしてこの「第一の原理と第二の原理の間には常に溝、又は空白が割り込んでくる」と述べているのですが、この部分が私にはよく分からないのです。
"空白" ...これは、ベルジャーエフが随所で述べていた無根拠なる"深淵"、又彼が影響を受けた16ー17世紀のドイツの神秘思想家ヤーコプ.ベーメが説いた万物の根源、"無底"といったものと関連があるのでしょうか?
それは、"割り込んでくる"、別のところで"形成される"とも書かれていますが、それは原初から在る(本当は在るとは言えないが)ものではないのか? まあ、感じ方は自由ですが...
ウスペンスキーは、この消息を如何にも数学、幾何学的な説明で述べているので、私には理解しにくい点が多いのですが、その個々の差異化と一なるものへの統合化は出会うことが無いと言います。
どうもそれをもたらしているのがその空白で、その有り様は「まったく計り知れないものであり続けた」そうです。
私には、この底無しの深淵(無限の虚空といった感じではありません)らしきものは、あの原初的自由(これは絶対的個と結び付いています)の出所のようなものとしてしか感じられませんでしたが、その自由というものは、矛盾するもののように捉えられやすい、あの一なるものとのつながり(これは業的もつれ合いの裏表のようなものです)を通して感じられ、又その一なるものは真個といったものが、そのように際出たしていたのです。
裏側の世界で私の意識は 一なるユニティの世界と個的自由の世界を行ったり来たりしていたのです。
全的なものと個的なものは、分離しておらず、重合していた...さりとて一つではない(すべてで一つとしか言い様がありません) ...そこにはやはり空白、深淵が横たわっているのか?
これ以上は私には言い表すことも、理解も出来ません。そこに入り込んだら戻ってこれなくなりそうです。
おそらく、何一つ決まったものというのは無いってことなのでしょうか?
自由は、如何なる存在からも真理からも自由であり、あらゆるものに先立つものなのかも分かりません。
然るに ...ここかしこに漂う閉塞感、しがらみといったものは一体どうしたものでしょうか...されど、いつもこうして好きな事言っている次第です。
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死の向こうの関門

2017-12-12 17:25:42 | 雑感
前回の続きのようなことを書いてみたいと思いますが、世の中から"死の恐怖"というものが無くなればとてつもない変容が起こるだろう、と思います。
死の向こうで我々はどんな有り様で在り続けるのか、あるいは無くなるのかはともかく ...
しかし...ある人には、死の関門を乗り越えることが出来たとしても、地獄の関門(!)が待ち受けているのかも分かりません。
その人には誰に教わるでもなく、不死信仰が刷り込まれているようです。楽観的なそれよりもはるかに強固なものとして...
もしかして、死の恐怖に横たわっているものは、多くこの別なる恐怖なのかもしれません。

近年のスピ界隈では、"人は死なないもので、永遠に生き続ける"と説かれるのはもうお馴染みな訳ですが、例えばあなたの大切な家族、愛する人が猟奇的殺人者に無惨に殺されてしまったとしたらどうでしょう。
なるほど、"大切な人は死んで消えてしまう訳じゃないんだから、又、再びこの世に戻ってくるんだから、それはしばしの別れみたいなもの..."というようなことは、そうなっていることが当たり前のように、受け入れられた世の中にあって(その日はくるのかどうかはともかく)こそ言えることではありませんか?
スピ教師の常套句じゃないけど、そういうことは"今"、問われなければ意味はないのです。
あなたは今、その信仰を受け入れられるでしょうか? 溢れ出る悲しみの感情を押さえることが出来るでしょうか?
そう言われている教えというのは、彼らがそう言っていることに過ぎず、自分の身に関わることとは受け方は全く異なるものでしょう。自分自身の問題なのです。
スピの教えには又、時にこうした言説にも出くわすのですが、その犯罪者は善悪というものは本来無いもので、誰にも裁く理由は無いのだと言います。
凶悪な殺人者への許しがたい思いというものを信仰で誤魔化すことが出来るでしょうか?
こうしたスピの教えからは、我々の根強い罪の意識、他を裁く意識からの解放という意図といったものも感じられないでもないですが...感情の自然な発露というものが不問にされているように思えてなりません。
上記のことは勿論社会が定めた法、制裁とは別のことを言っているのですが、宗教的倫理から解放されているようで、神も裁きたまわないのです。
人を何人殺そうが本来的に罪も裁きも無いi 当然のことながら永遠の地獄というものも無いのです。
地獄というものはそも何でしょうか? それは死んでみなきゃ分からん、のと同じく落ちてみにゃ分からないでしょう。
しかしまあ、想像ですけど、それは完全に自我の思いで塞がったガンジガラメ状態のようなものでしょうか?それも常に何者かに責められ続けるという...何にしろ地獄の実在論は、神の愛より根強く信じられているのはどういう訳でしょう...
強く感じているのは、それは思いと共にあるもので、思考の産物(空想の産物という意味ではない)ではないか、ということです。善悪の観念というものが、いやあらゆる相対的観念がそうであるように、です。
そうなると、もし我々の思考というものが働かなくなったら、それらは消えてゆくことになりそうです。
逆に言えば、こういう諸々の思いで生きている今の我々には、そういうものが付きまとうということになるでしょう。
思いの彼方の世界というものは、私も垣間見たことがあるとはいえ、思われたままの我々の生き方がどのようにそっちにつながるか、つながらないのか、ということは分からないのです。
と言うよりも...人の事は分からないのです。あなたにはあなたの門、道がある、世界があるとしか言えません。
私がそれを許されたのは、世にも恐ろしい、神の裁き(みたいに思い込んでいた)のような、あのすべてを見通す目の照射を受けたからです。
(地獄の恐怖に横たわっているのは、こうゆうものでしょうか? これを克服するには...向き合うしかありませんi、そしてありのままを認めるしかありませんi)
して、"ここでは何も咎められてはいないi" 故に許された、許されていたのです。
そこから開かれた世界では思われた世界から持ち越されているものと、幻想のように消えて行ったものとがありやかになっていました。
そこで持ち越され、リアルに感じられるものは、ことごとく身に覚えているのです。
それは、思いの世界で泣いたり、笑ったり、感動したりの生活の中のことごとくの"生けるもの"ともいうべきものが反映されていました。
その"はかり"は倫理的なものとは全く異なるものです。善でも悪でも無いものなのです。
人の事は分からないけど、あの門を通れないのか、通ろうとしない生もあるように感じられました。
思いを超えた世界が直ちに死後の世界と言うことは出来ないだろうし、思われた個人がそのままそっちに移行するとも言えないことですが、この部分で相即しているものを感じました。
いかにこの世はバカバカしいものであっても、けっして仮初めのものとして片付けられないものでしょう。
その裏側には、思われたもの以上の深み、広がりがあるとはいえ、この生は二度となく、我々一人一人はかけがえのない存在であるのに違いは無いでしょう。
我々に生まれつき備わっている感情には、生あるもの、命への畏怖というものが込められているのではないでしょうか?
しかし、徐々に思われた世界がぐらつき出しているのを見るにつけ、人生も世界も深み、広がりをもったものに変わりつつあるという、その予感は感じてはおります。

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