人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

この世界にたった一人(後)

2019-08-21 04:59:24 | 創作
"子よi 生きたいのなら、起きるがいい...眠りたいのなら、安らかに、休むがいい..."

ああ...風が何て心地いいんだろう...
"ゴオ、ゴオーッ" 風の音なのだろうか、大地からなのか、雲間から聞こえてくるのだろうか...
自然と耳が研ぎ澄まされている...
生きているものなど何も見当たらないのに、周りにはこんなに律動に溢れていたのかi
私は初めて天と地は生きているのだ、という実感に浸っているようだ
しかし、どうあっても...これは夢じゃないのだ!
目覚めてみて、私はこの世界にたった一人なのに変わりはない
そうなんだが、どっからか屈託の無い笑みを浮かべながら、幼児がヨチヨチした足取りで現れるような気がする
"オーイ、こっちだよi"と呼べば、走り寄って来るような気がする
鳥が、猫が...いや、たとへ熊とか、猛獣だろうと親しく感じるかもしれない...
私は本当に一人っきりなのだろうか? いや、むしろそうだからこそ感じるものなのかもしれない...
何も出来ない、何処にも行けない...しかし、何とも言えない充足感、幸福感みたいなものがあるのはどうしてなんだろう...
私以外の人類の運命、苦しみ?...あんなに重くのし掛かっていたのに...世界中の業苦を背負っていたように感じていたのに...
神の怒りに触れたのかどうか分からないが、みんなは...悲しみみたいなものが覆っているけど、苦しみは感じてこない
怒れる神は、みなと一緒に死んだのだろうか?
悲しみ...これはそう、哀れみ、慈しみと共にあるのだーこれは全く途方もないi
私はただ、それを味わされている...どうしようもなく...
人類の運命?...みんなには悪いが、分からないよi...人類愛何てここには無い、どっからも出てきようが無いのだi
人間が生きているのかどうか分からないが、私しか居ないのだ
だが、この途方もない哀れみは...どうしようもないi
私は本当に、この世界に一人っきりなのだろうか?
私が世界にたった一人だとしたら...そうだ、私は全人類なのだi
人類の歴史は大いなる失敗だったのか、どうか分からないけれど...
全身全霊で、溢れ出てくるもの、満たしてくるものを受け入れ、感じるしかない...
もはや起きても、寝ててもどっちでもいい...
神のことはまだ許せないけど...私はとっくに許されていたのだ...

「"山は移り、丘は動くとも、わが慈しみはあなたから移ることなく、
平安を与えるわが契約は動くことがない"と、
あなたをあわれまれる主は言われる」(イザヤ書第五四章)
(終)
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この世界にたった一人(前)

2019-08-20 04:28:52 | 創作
「私は地を見た...それは形がなく、又むなしかった
天を仰いだ...そこには光がなかった...
私は見た...人は一人もおらず、空の鳥はみな飛び去って行った...
主はこう言われた、"全地は荒れ地となる...このために地は悲しみ、上なる天は暗くなる
私はすでにこれを言い、これを定めたからだ
私は悔いない、又それをすることをやめやしない..."」(エレミヤ書第四章)

"たとへ、この世界が滅びたとしても、私は我が道を行きたい"

まさか、このことが現実になってしまうとは...
私はこの地球に生きて帰ることを諦めていた

"絶望視されていた、宇宙船乗務員の奇跡的生還i"

私はこんなセンセーショナルなニュースの見出しで、多くの人から祝福を受けて、この世界に戻ってくるはずだった...
ところがどうだろう...誰も迎えに来ないじゃないかi ここにはもう誰一人生きちゃいないのだi 何というタイムラグだろう...神のイタズラ...
私は助かったのか?...本当に? 本当に受け入れなければならないことは何なのか?
一体、ここに人間は居るのだろうか?
人間が居るとは、人間の生活、営みに触れてこそ言えることではないのか?
この世界でたった一人だけの私...これが人間が生きているなどと言えることなのだろうか?
私はもう私が誰だか、何者なのか皆目分からなくなってしまったi

巨大彗星ルチフェル(明けの明星)の地球激突は、避けることが出来なかった...人類はこの絶望的状況を一体どんな気持ちで迎えたのだろうか?
たった一人の生存のことなど誰も知ったこっちゃ無かっただろう
私は地球でたった一人の男...生きることを諦めた人間が生きていて、大多数の生きたい人間は救われなかったのだi
こんな自己中な人間は居るだろうか? 人類の裏切り者...しかし...フハハハ、一体誰が非難、糾弾すると言うのかi
世の中という神が居なくなったら、何も恐れるものなど無いではないかi
それにしても...酷い、酷すぎる...どこに行けども、累々たる屍の山...
むき出しになった崖の断面に地層が顕わになっていた...それは、屍の山が幾重にも重ねられた、人類の歴史のように見える...
神よこれは何の報いですか? どういう戯れなのですか?
あなたの創造の御業は、すべてこのためだったのですか?
全人類の苦悩は、そのための肥料となったのですか?
ああ...あなたをどうしても許すことが出来ない...生きるべきか...いや、今生きているのか、死んでいるのかも分からなくなってきた...
いつの間にか、私は疲労と混乱と絶望の中で昏睡に陥った...
(続)
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恩寵を図ることは出来ない

2019-08-18 12:23:40 | 求道、探究
真宗系の宗教哲学者安田理深師は、所謂神秘体験というものに否定的だったようです。
これは何を持って神秘体験と捉えるかで、観方、感じ方は別れるでしょうが、そこでは主として同じ仏教の真言、日蓮宗などに観る、目にモノを言わせるような超常的"霊験"と結び付くような事について述べられたようです。
又常識的、理性的キリスト者でも、"回心"、"啓示"といった事柄については、常識的判断を超えない範囲内に押さえられ、異言や奇跡的治癒などの"霊験"の伴う、原始キリスト教や種々の神秘主義について否定的な観方をする者も多いのです。
その理由としてそれらのことは、"現代科学、理性的見識の発達していない、行き届いていない世界でのことであり、現代に生きる我々は、それ相応にアダプトされた理解が求められる"、云々とのことだそうです。
先の安田師の言葉からは、宗教的な回向、回心、おまかせ..."分別を超えて投げ出す、ということ"の消息はハッキリと感じられます。
霊験があろうが、あるまいが弥陀の本願にひたすら打ちまかして行く生き方です。
その神秘体験批判というものは、真宗的な(ある意味で禅的なものとも通じるでしょう)念仏の静的な調子と加持祈祷などの動的、律動的なそれとの違いから出たものと思われます。
回向、回心という、分別を超えることの出来ない人間が、忽念と思いを超えて、神(仏)的なものに帰命されてしまう、ということ自体神秘体験とも言えないでしょうか?
しかし、現代的理性的感覚に留まったままの意識世界に、こういう事態が開かれてくるものでしょうか?
現代人の常識的判断から、思考次元を超えた神秘の次元について推し図っているだけ...要するに、経験したことの無いことは分からないだけなのです。
分からないことは否定してしまうとは何と傲慢な心的態度だろう...お気の毒という他ありません。
思いを超えた次元というのは、分からないことだらけなのです。"分からないi"と自覚されたところに超えた次元が開かれるのです。
意識があるところで閉じてしまっては、恩寵の光は臨んでこないでしょう。
それが臨んだならば、受け入れるしかありません。
恩寵をこちらの思惑で図ったり、制限することは出来ません。
私は別にそれを推奨している訳でも、それに深く通じている訳でもありませんが、広い宗教的な体験には常識を超えた、見た目にも妖しいような事態というのもあり得るでしょう。
神秘体験に囚われてはならないのは、言うまでもないことですが、もしその過程を通らされることが宿縁、御旨ならば受け入れるしかありません。
"囚われてはいけない"ことに囚われることだってあります。
思いでアレコレと判断しているのは、自分の思惑、力で何かの境地に至ろうとしているのでしょう。
自ら望んですることと、"臨まれて"させられることとは丸っきり違うことなのです。
とにかく思いを超えて臨んでくるものにゆだねることが肝心なのです。
勿論、如何に常識を超えたことでも程度というものは勿論あるでしょうし、危険性が生じたならば、考慮されるべきです。
しかし、"見えざる導き"に従うことは、"安心で居られる"と思います。それでアブナイことになったことがありません。
安心ということは、又心が安らかであるということでもあります。そうならない訳がありません。
自分が思い描いている常識的判断、自分が信奉し、帰依している立場、神秘的、悟境体験などへの固執...それらから離れられるのも導きに依ります。本当にゆだねるべきものを頂いていることが一番安心で居られることでしょう。

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聖霊の新時代

2019-08-17 11:50:57 | キリスト教関連
このブログをずっと読まれている方ならお分かりのように、私は特定の宗教宗派から自由なのです。
特定の宗教的グループと関わったこともありましたが、そこでセクト、宗派性をもたらす言動に触れると強く反発を覚えたものです。そのグループと内的軋轢が引き起こされた主たる要因は、那辺にあったと言ってもいいくらいなのです。
しかし、ある宗教的領域で言い習わされている言葉に、特に惹き付けられるところがあります。
それはキリスト教的領域で"聖霊"と言い表されているものです。
言うまでもなく、私がよく(聖霊と言った場合、どうしてもキ教のイメージが付きまとうため)"現臨"というものと結び付けて言っているものですが、もう、その片言に触れただけで胸が高まってくるのを感じます。そう、意識が向いてしまうのです。
長いことその理由が分からなかったのですが、ブログを書いているうち何となく分かってきました。
それは、そこにキリスト教にまつわる信仰や神学などで色づけされない、純然たる聖霊の事態というものは、特定の教義、修行、儀式などに関わらないものだからです。
逆に言うと、その雑多なものが介入しだすと、それは立ち所に蒸発したように感じてきます。
つまりある教えを信じなければ、聖書を読まなければ、ある方法に則らなければ、教会に行かなければ、洗礼式に臨まなければ、聖霊に与ることは出来ない、ということはないのです。
逆説的に言えば、聖霊の事態はキ教の範疇を超えているのです。
キリスト教のキの字も知らない人でもそれを受けることが出来るのです。このことはこの無宿人の私自身がそう導かれたことで反証されることでしょう。
聖霊は古来よりプネウマ(風)にたとえられてきました。風は吹くところに吹くもの...特定の信仰や方法などで、方便といったもの以上に囚われるや、生命の枯渇につながります。
いつも感じていることながら、世にスピリチュアルと言いますが、これほどスピリチュアルなものは無い、と言っていいものが、あまりにもなおざりにされ過ぎてはいないでしょうか?
そこに相対的、人間的な教えだとか、教師だとか、メソッドなどがのさばり始めるのでしょう。
聖霊に与るとは直接的なことです。何かを為そうとする自己に先だってあるもの、天来のものであると同時に、元々うちに息づいているものです。この二つが引き合うところに聖霊がハタラく...信仰や行法によらずして...
聖霊は、このようにそれ自体が超宗派的なものと言ってもいいでしょう。(いや、全く私は惹き付けられてやまない訳です)
玉城康四郎先生は、原始仏教の究明から仏教的ダンマを聖霊と同質のものであるとし、それは諸宗教の根底に息づいているもので、セクト性を超えて、その原初的生命にあって共存されるとしています。
小池先生やベルジャーエフ、ティリッヒ(ドイツから米国に亡命した神学者)らも等しく、普遍調和に導く聖霊による新時代のヴィジョンを掲げていました。
私は日増しに強まる耳鳴り、風が心身に吹き抜け、浸透して行くのを覚えるにつれ、その時代の息吹を感じてやまないのです。
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第一義の神

2019-08-16 11:16:35 | 
神とは何か?
神を信じますか?

神と一口に言っても、様々な観方、感じ方があります。
"信じる"、ということについても。
ただ人がそう言っている神、素朴に"神は居るんだから信じましょう"というだけのものでしたら、唯一絶対の神だろうと、イワシの頭だろうと変わりはないでしょう。
存在しないものは信じられないでしょうか? それでしたら神はモノといっしょでしょう。
宗教で説かれる神は、A教の神は信じるが、B教の神は信じない、否定される...他の神を信じると地獄に行くとさえ説かれる。
神に背くとバチが当たり、地獄行きとなる...
こういう神はすべて人間が考え、存在している(やはりそう考えられている)ことを大前提にして、信じられているのです。
その人間というのは、現にここに生きている、実存しているあなたや私ではないのです。要するに神は、他人事の世界で説かれているに過ぎないのです。
哲学や神学で説かれる神は、宗教の盲信に比べれば、ずっと人間の知性、悟性に訴えるものがあり、その究め方次第によっては我々の実存に迫ることも可能でしょうが、概念に留まるままでしたら、実存は解明され得ないでしょう。
神への帰依を嫌う道では、宇宙の法則とか、オクターブのなんとかだとか法則、定理など"理"を究明しようとします。理神論というものがあるらしいですが、神も法則に当てはめて理解されているようです。ユークリッド幾何学みたいなものは理解出来ても、神的愛といったものは、永久に理解出来ないでしょう。
宗教の神も、哲学の神も、理学の神も、相対的有り様の中で各々存在理由はあるでしょう。
しかし、あなたや私にとっての第一義の神は、上記のような他人行儀な在り方では絶対にありやかになりません。
第一義の神とは、あなたに直接開かれる、顕わになる、あなたのうちに息づいている命そのもののことです。
一般通念だのは勿論のこと、頭脳明晰な学究的態度だの、信仰だの、修行だのが一体何になるでしょうか?
第一義の神とは何か? 実は私は分かりません。それが何かは答えられません。又、ある意味私は信じてないと言ってもいいのです。
それは、私が信じるとか、信じないとか、こちらの心情的なものを超えているものだからです。
信じなくとも、それが何であるか分からなくとも、感じることは出来ます。この感じはあらゆる思念を超えている、故に信じなくとも信じざるを得なくなってしまうのです。
これにより、私は思われた人間のように考え、存在していると、そのように前提として考えられていたことがひっくり返されるに至ります。
そして、こうであると、思われた神はすべて第二義以下のものになります。ことに人間が如何にこの世の神として君臨していたかということが思い知らされます。
神はこうであるとは決して言えない...それは他人でない、あなた自身に直接知らされることだから...
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