人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

性格は変わらないけど、向きが変わる

2019-08-14 10:50:02 | 現臨、ハタラキ
成功した(と思われる)スピ教師などはよく、"かつての私は性格も暗く、人生を肯定的に、積極的に思えることが無かったのですが、今は前向きに、明るく、ハッピーに過ごしております..."なんてことを宣ったりするのですが、人間の性格ってそんなに変われるものなのでしょうか?
私など、最近もすぐ昔ながらの、自意識過剰気味な性格が顔を出すようなこともあり、つくづく"変わらんものだなあ..."てことを思い知らされたのでした。
もう、年も年だし、この先性格が変わるなんてことは望めそうにありません。
いや、もうとっくに変えようとすることなど諦めてます。そう心がけていて変わらないと、余計に自責の念に囚われて、苦しくなるのを何度も経験しているからです。
"そういう性格だからお前はダメなんだよi"、"お前だけだぞ、そんなヘンな性格はi"、何て声も聞かされました。
そういうのはしかし、そう言っているだけなのです。だから今だったら"人のことをダメだ、ダメだと言っているお前の性格こそ悪いi"と言ってやるでしょう。
(あなたの周りにも、性格の変わらんヤツいっぱい居るでしょう?)
そして最近は、"この人は変わっているけど、自分の世界を持ってる人なんです"なんて、理解者らしき人も現れたりしているのです。そういう(しょーむない?)人のように認知されてるようです。
自分の性格は変わらないけど、あまりその事で自分に、思いで負担をかけることは無くなりました。
これは、意識が周囲の人間でなく、別のものに向けられるようになったからだと思います。
心がけとか思い方を変えるというのでなく、ただ向ける、向いちゃうのです。
例えて言えば、気持ちが塞がっていた時など、ふとキレイな夕焼け空に目をやってみたら、いつの間にかそういう思いから離れられるようなことです。
こういう誰もが経験してるようなことを、少し内的に意識的になるようなことです。
意識が向けられてしまうものがある...そういうものは誰にでもあるのではないでしょうか? そのものでなくとも媒体となるものとか...とにかく最愛、最善に感じているものです。
いつもいつもハートの辺りに霊なる夕陽みたいなものを頂いているような感じで、それは自ずと立ち上ってくる...
これは自分の性格を、自分で変えるようなこととは根本的に違います。もっと無為的、自然(じねん)的なことです。
"自分をどうにかする"のでなく、この無為的なハタラキの方を望む、するといつの間にか臨んでくる...
そーなると、そういう出来もしないような試みのことなどどっちでもよくなります。
さっきの(一見?)理解者らしき人など、"この人の性格はテコでも変わりゃしませんi"、何て言ってました。
そうです。これは変わらん、変えられない性格を逆手に取ったような話です。
性格は変わらないけど、向きが変わるのです。
第一義のものに身をゆだねていたら、テコでもそこを動きやしませんi
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お盆に思う

2019-08-12 18:14:37 | 独語
お盆にはふるさとに帰る...
私は、両親も亡くなり、特に帰るところも無くなってしまったけれど、誰が決めたのか、そういうことになってるらしい
渋滞に巻き込まれたり、満員電車でぎゅーぎゅー詰めにされたり、シンドイ思いしても...
盆と正月...
そういう習慣? みんな行くから?
何で、行くことになるのか分からないけど、何でその時季じゃなければならないのか分からないけど...私も行かされていたi
関西に居たときは、そっちから東京へ...渋滞も満員電車も関係無かったけど...何だか行かなきゃならないような気がして...
"ヤダなあ、メンドイなあ"と思いながらも気が付いたら新幹線に乗ってて、東京に着いたら..."ああ...帰ってきたんだなあ..."
こりゃスゴいことじゃないかi
国民的行事...
所縁の神社、お寺、モスク?に参る人も多いだろう
生まれ、育った土地...たとえ姿は変わってしまっても、懐かしい思いが呼び覚まされる...
知らず知らずに故郷の、見たままでない、心の奥に息づいているものに会いに行かされるのだろう...
ある盆の時季、東京中野にある産土神社に参った時、夕方5時の時報が鳴り、それに合わせたように境内の傍らから猫が出てきて"にゃー"と鳴き、カラスが"かあ"と鳴きながら夕日めがけて飛んで行った...
何とも懐かしい思いでいっぱいになった...
目に映る景色、事柄すべてが懐かしい...
少し、意識的になると、何時もながらのことが、特別の、かけがえのないものになる...
ただの習慣、因習でない、国民一人一人の魂の故郷への巡礼
それぞれの道にありながら、心は一つに向かう...
内包されているものが、顕わになれば...そんなことが過らされる...
日本とは不思議な国
"日本は神の国"
国が平和に治められていることを表徴していることが、不穏な気持ちに駆り立てられる言葉になるらしい...
お盆...神?
こりゃ、仏教から来てるんだったi
いや、何だっていいのが、神じゃないか?
知ってか、知らずかみんな帰依ということをさせられているのだろう...
依らざるを得ないものに帰らされる...
お盆にはみなふるさとに帰る...
暮れ行く空に蝉が鳴いている...
帰る場所があろうと、あるまいと懐かしい思いが呼び覚まされる...
不思議な国、不思議な時節...











コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宿業と本願

2019-08-10 12:00:57 | 仏教関連
「本願は考えるものではない。本当の意味で本願こそ宿業です。...宿業をもって自己自身とする本願こそ本当の宿業といえる」(安田理深/信仰についての問と答.文明堂刊)

"本願"とか"帰命"など、浄土系仏教で伝えられている教えですが、私は元々あまりそちらには直接縁がなく、主として小池辰雄先生の"キリスト道"を通じて親しんでいたのです。
又、関わりのあった大調和協会の創始者松本命御様は真宗に縁があり、講話などでしばしばそうした題材を取り上げておられたし、古い会員さんもその縁の方が多かったのです。
こうしたところからか、私は自然にこの周辺に息づいている道念みたいなものが身についたようでもあり、もともとそういう宿業を背負っていたということなのでしょう。
だからこそ、そういう道に導かれたということなのでしょうから...宿業。
業といえば、大方はネガティブに受け取られ、それを嫌い、その絡みから離れようとしたりするものです。
今、災難、苦難に見舞われていたら、そのように赴くのは当然のことでしょう。
しかし、宿命という言葉からも伺えるように、自分のもって生まれた性格とか、"どうしてもそうしちゃう、そうなっちゃう"、日常の性行とかは、容易に変えられないものです。
求道的な人は、"そういうのは本来の自分じゃないのだから、否定し、消さなければ救いも悟りも得られず、真我に目覚めることは出来ない"、と思い、イロイロ試みようとするかもしれません。
私なども、自分のいつも思いがガンジガラメになる性質をどんなに呪ったことでしょうか...思うまい、離れよう、逃れようとするほど、余計その絡みに嵌まってしまうよう...
自分からそれを否定し、無くそうとする試みは、すべて業の前では撥ね付けられ、無駄なことのようにしか感じません。
これが宿業というものか...ニセモノか本当かは知らないが、そうなっている現実から、この自己は離れることは出来ないのです。
そこで例えば、"いいや、これは捨て去るべき偽我であり、私は本来神の子で、完全円満なのだ"、と懸命に思おうとするのは、文字通り思いの世界で描いているだけです。
これは、現実を否定し、受け入れようとしない、ということで、現実の自己を受け入れないということになります。
この宿業を否定したところに、この思われた自己に先立つ、神的なものの発現、真我の目覚めなどあり得るでしょうか? むしろますますそれらを覆い隠し、離れて行ってしまうことにならないでしょうか? そこには、本当に"まかせる"という契機は生まれません。
そうなっている現実、自己を受け入れたところに、そこから離れ、超えられる契機が開かれるのです。
これは思われた自己の沙汰じゃなく、こちらに先立ち、導こうとしている本願的なものに依るのでしょう。
私の場合、容易に思いに囚われる性質が、容易に思いを超えたものに捉えられる性質に化してしまったようなのです。これは全く裏返しみたいなものです。
こういう種は、忌まわしき宿業の中に包まれてあったのです。この宿業を生きていたからこそ、本願にまみえることが出来るのです。
良くも悪くも、縺れたような業的つながりにある人生、しかし、そこに神仏とのつながりが芽をだすこともある...
結局、ありのままの自己を信頼するということに尽きるでしょう。そこに自己を超えたもの、神仏への信頼も生まれ、"まかせる"という心持ちも生まれるのでしょう。










コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

念仏の普遍性

2019-08-09 11:59:57 | 仏教関連
鈴木大拙などの禅を中心とした宗教哲学に比べると、あまり馴染みが無いようですが、清沢満之に始まり、暁烏敏、金子大栄、曽我量深、安田理深らを輩出した、真宗大谷派の宗教哲学の学統は、我が国の精神史の中でも特筆すべきものがあったと思います。
宗祖親鸞の教えが、我々により実存的深みをもったものとして、理解されるように至ったのは、彼らの功績だったと言ってもいいでしょう。
その自由な思索、感性に基づく考究の在り方から、時に体制的な、護教精神に囚われた教団側から圧力を受けたりしましたが、その書き物を味わってみて、彼らは哲学する精神を有しているのであり、真宗という教相に囚われていない、ということは充分に伝わってきます。
しかし、清沢師はそれほど感じないにしても、彼らは一様に、"南無阿弥陀仏"の六字の名号に、信心の帰着を求める姿勢を崩そうとはしません。
「名号の外に救いは無いのです」(曽我師)という言葉もあるくらいで、こういった点が、偏狭という印象を与えてしまうのか、縦横無尽に自由に語る大拙師などと違って、イマイチこの学統が浄土系仏教を超えて、広く我が国の精神界に浸透しなかった要因にもなっているように感じます。
しかし、私は"南無阿弥陀仏の外に救いは無い"、いやその通りではないか...と、ヒシヒシと感じてきます。こちらに念仏を称える習慣など無くとも...
念仏に法縁を感じている人には勿論、そうでない人にも、宿縁は一人一人違っていても...この宿縁に出会わされる、ということから離れて救いは無いのではないでしょうか?
小池辰雄先生なら"南無キリスト"であり、玉城康四郎先生なら"南無ブッダ"であって当然構わないでしょう。
こういう極言ともとれる言葉の奥では、ごく私的なことが、普遍性と切り離されていない、ということを表明されているのでしょう。
それは"念仏を称えなければならない"ということではない...こちら側の何かによって救われるのではない、そうでなければ"弥陀の本願"というものは空言にすぎなくなるでしょう。
これは信仰であって、信仰でない...そういうものをいくら観念的に信じたって、命になりません。信じたり、行じたりする以前に、又それらを超えて、命として感じられるものが本願的なものでしょう。
この宿業と本願の消息を究明したところに上記の諸先生たちの真骨頂があると思います。
そして、南無阿弥陀仏というものの内実にあるのは、永遠の命、文字通り普遍に通る光に帰命するということで、浄土系とか仏教という範疇を越えているものなのです。
彼らの表向きの念仏を勧め、深めて行く言葉に隠された真意は、念仏に宿縁を持つ者と同じように、諸人は、各々の宿縁により、各々の最愛のもの、神的なものとつながることだった、と言ったら言い過ぎになるでしょうか?
そこに言葉に表せない教相を超えたものを感じさせつつも、このような普遍性へと開かれた場へと展開しなかったのは、実に惜しい気がします。
これは彼らが学派のうちにとどまり続けた在り方の限界だったのかもしれません。
それにしても、お盆の季節と相俟ってか、その帰命という味わいは、実に我々日本人ならではのものという感じがします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

意識は意のままにならない

2019-08-06 11:48:04 | 意識、照明
一昨日、クエーカーの礼拝会に参じたのですが、どうもいつもと様子が違っていました。
たまにあることなんですが..."あれ、オカシイな、いつものようにならない...なあに、あと数分したら自動的に...ならんi 何でや?"
いつものように"ジン、ジン"と礼拝モードになってこないのです。
その印しとも言える、耳鳴りも鳴りを潜めているのです。
"そ、そっか...爪切りがコツ念と消えて気持ちがアタフタしたセイか...いや、この酷暑のセイだ...慢性鼻炎でぐちゅぐちゅしてるセイだ...他所のことに転化したバチだ..."とか考えてても仕方ありません。
私の場合、修行というものでなく、"こうすれば、ああなる"、というキッチリと捉えられる方法論みたいなものがある訳でないので、どうしようもないのです。
いつも事も無げに言っている、"意識を向ける、向いちゃう...すると、パッと..."ということがどういうことなのか、サッパリ分からなくなってしまったのです。
我ながら、そんな摩訶不思議なこと、一体何を言ってきたのでしょう。
"誰かやり方教えてくれませんかあ..."、なんつって...
4、50分ぐらいして、いつの間にか"回復"しました。本当に回復したというのが実感です。
"通ったi"という感じです。
それくらいずっと私には当たり前のことだったのです。有り難いことです。
当たり前だけど、そう思っちゃいけない...こちら側の何ものかによってそうなるんじゃないのですから...。
"意識を向ける、向いちゃう"と言うけれど、何にもないものに向いたりはしません。
こちら側に先立つものがある...無為的にそうさせる、そう在らしめるものがあるのです。
で、何で回復されたのか? 意識を向けたから?...いやこういうのは自意識が働いているとは限らず、よく分かりませんので、いつの間にかなのです。
そうでなしに、"意識を向けよう、向けよう"とすれば、人為的な意思想念に依ろうとし、それを強めて行ってしまうでしょう。
いくら如来に頼り頼もうと、"ウン、ウン"唸ってたって、来ないものはしょうがありません。
そして、どうにかしようと、どっかのチャクラなどに意識を集中しようとか、人為的な方法に頼ろうとすると、スッカリあの感じは蒸発するに至るのは経験して知っています。(これはあくまで私の場合のことを言っているので、他の人に当てはまるかどうかは知りません)
そして、失地回復してみて、この"そう在らしめるもの"と共にあることが、何と自然なことであるか...こちらが意識する、しないより先に向こうさんが呼んでいるようではないか...
"どっかへ行っちゃった"とか、"見捨てられた"とか、"バチが当たった"とか、余計な思案は無用なのです。
私の宿業のようなおバカなスコタンばかりが、勝手に独り相撲しているだけなのでしょう。
風は吹くところに吹く...通るものは自ずと通るのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする