人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

思いと風

2019-10-22 10:57:16 | 雑感
「時間というのは無いんです。"いまここ"しか無いんですよ。これはマインドでは理解出来ないことなんですi」

と、人気悟り系ブログでは、相も変わらず一方的な、一人よがりな言辞を繰り返しています。
理解出来ないことを突きつけられると、人間どうしたって考えちゃうものです。
そして、そういうことを究極の真理みたいに決めつけたように言われると、"考えちゃダメなんだ"ってことも考えちゃうのです。勿論マインドで...
それは良いも悪いも無く、そうなるものなんです。しかし、それとなーく、マインド敵視の思いに取り込まれてゆく...一元的なものに帰ろうとしていた意識がますます二元的に分離してゆく...
マインドで理解出来ないんだったら、そんなもん読まなきゃいいでしょ?
言っている方もマインドでそういうこと言っているんでしょ? 最初から迷わすようなこと書かなきゃいいんですよi
"あっ、そうだったんですねi"、とお追従する者も...かくしてその界隈はマインドで充満するだけ...

私も今マインドを駆使してこれを書いています。これはけっして"お筆先"じゃありません(笑)
ただ、それが行き所を無くして滞ったり、ぐるぐる同じところを周りつづけたりしないように意識して書いてます。
ですからマインドが固まったり、あちこち飛び回らないようにコントロールしてですね...
違うってーのi
意識するとか向けるとかいうのは、実は言葉の綾でして、自ずとそうなるようなもんで...
これはマインドでは理解出来ないでしょう。理解出来なくていいのですi
これが思いを超えたもの、神的なものを意識し、させられているということなのです。
理解出来るのであれば、思いは超えられませんi そうさせられるものが伝わらなければ、自分で超えようと考えてしまいます。
神は理解出来ないもの...分かったと思ったら迷いに陥るものです。
しかし、頭で分からなくても感じることは出来ます。
そういうものが感じられるでしょうか? 伝わるでしょうか?...こんなに"じんじん"、"きんきん"してるっちゅーのに...
私の力不足だろうが、なんだろうが、いつも書かされているのは、思いを超えたものの消息です。ここにマインドは心地よい風(ピニューマ~霊なるもの)に吹きさらしとなります。
ホントはこう書かされている瞬間、私自身そういうものに与れるからこそ書いているのでして、人にウケようが、理解されようが、知ったこっちゃないのですi
たとえ、一人よがりだろうが、考えても分からないことを考えたり、出来ないことをやろうとしたりなんてことを私自身は勿論、読者に向けることはしたくありません。
精神的なことについては、どこまでも神的なものにあって、風に当たっているように表してゆきたいのが私の願いなのです。
そうすると..."いまここ"しかない、という感じにもなってくるかも?...
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本当の最善の道?

2019-10-20 11:56:31 | 求道、探究
今、ある宗教的、スピ的な教えに関心が向いているとして、頭の中に"もっと素晴らしい、役に立つ教えがあるかもしれない..."という思いがもたげてくることがあるかもしれません。
こういうことは結構、人生最大の善き出会いを取り逃がすことになるとも限りません。
現代では、そういう情報にアクセスしやすく、広がっているので、見つけやすい反面、迷わされることも多いのでしょう。
大体は、色々頭の中で思い巡らしているうち、自分が何に関心があるのか分からなくなってしまうものです。
考えているということは、そういうことだからです。どのくらい時間とエネルギーの無駄をしているか分かりません。
最初にあることに関心が向いている、"好きになってしまった!"、ということが起きているんだから、そこに落ち着いていりゃいいものを...私も結構浮気性なもんで...
しかし...そうして他の方に目が移り、ホントは、"そっちの方がいいi"と感じているのに、"いや、他に心を奪われてはイカンi"という思いでそちらを打ち消してしまい、やはり取り逃がしてしまうこともあるのです。
こういうことというのは、自分が選ぶ、取ろう、掴もうとしている限り、どうしたって自分の思いにおもねるしかないというところからくるのです。
これに実益性とか世の中の評判、人間関係の付き合い、あるいは自分のただの意地みたいなのが絡んでくると、益々訳が分からなくなって、どれだけ"良縁"を逃していることでしょうか?
最善、最愛のものとは、実は言葉の綾で"これが一番i、これ以上のものは無いi"と決めつけた時にはそうでなくなるものでしょう。
そういうものに捉えられなければ絶対に(これは綾じゃない?)分からないことです。そうなった時に分かるのですi..."いや、これはまだまだなのでは?"なんてやってられる訳がありませんi
これはもう感覚的なもので、"じんじん"してこないものには、心が動かされないのだからしょうがないのですi 好きになっちゃったんだからしょうがないi...
これはほとんど物理的なことと言ってもいいのです。
その道のガイドブックみたいなので、"道を選ぶ場合のポイントは?"何てのが一応はあるんでしょうけど、もっと根本的なことを言っているのです。
先の最善のものを取り逃がすというのはあくまで、それが"見える"機縁、媒体となるものについて言ったのであり、特定の教えを介さないもっとダイレクトな"見えざる"出会いのことには触れてません。
何にせよ、自分自身に息づいている、理屈抜きに惹かれるものから離れて他の道におもねってしまう、ということから迷いが始まってくるのでしょう。

と、いうようなことを私がいつも書かされているんだから、きっと世も末なんでしょう。
私は"いや、まだまだだ"とやってたクチで、あのものを何とか捉えようとして、捉えられてしまったのです。
つくづく、人生ってのは分かりませんわ...
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無為に過ごしていて悪いか?

2019-10-17 11:54:32 | 意識、照明
"考えてちゃあ、ダメだi、行うことが大事なんだi"
"人生では、何を為(成)したか、ということが問われるんだi"

"僕には何も出来ない、為し得ない...何てダメな人間なんだろう..."って、内向的な人間である私はかつて思い、悩んだことがあります。
とにかく、世の中の神サマは、"行動しなければいけない"ような気がしてくることに駆り立ててくるんです。
"で、何をするの?"って、考えてるからダメなんだ、と来るから、じゃあ寝てるか、座ってるか、立ってるかしよう、というと、又そうやって"無為"に過ごしてるじゃないか、ってもう、イイカゲンに...だからイイカゲンなことをやってるしか無いんだ、人生は...
このように、この現実世界は有為なことに"思いが向けられている"のです。それは物理的、現象的なことに即応した行動と結びつけられている訳です。
だけど何も考えないで行動してたら、自動車に轢かれますよi...思考と行動というのは別々のことじゃありません。皆そう"思っている"訳でしょ?
世の中体育会系の人間だけで成り立ってる訳じゃなく、内向的な人間が肩身の狭い思いをさせられる必要は無いのです。
そして、見える現実がすべてだと思っている人間は、思考と行動がすべてだと思っているようです。
つまり、そのもっと根底的な部分の純粋意識的な領域のことは、"意識されてない"のです。
ことに当ブログの主要なテーマである、思いを超えた、神的なものに意識を向ける、というか意識的になる、ということは...これはもう"私が考えている以上に"、根本的、革命的、途方もないことだと思いますよi そういうことを日夜書かされているのですi
人間が思考し、行動するのは、歪んだ人間でなければ、今よりもより良い在り方、つまりは幸福に与らんがためにしている訳でしょう。生きるというのは、そういうことでしょう。
だけど、考えなくても、行動しなくても、そういうものに与っちゃったら、何をどうしたらいいんでしょうか?
もっと考え、もっと行動しなければなりませんか? あのねえ...そうしたら幸福を取り逃がしてしまいますよ、取り損ないますよ。これは取ろうとする前に与っちゃった、ということなのです。
このことは、神的なものに捉えられたことが無い人には絶対に理解出来ないことです。何かやらないと幸福になれないと思い込んでいる人には...
無為的なハタラキが臨んだら、何も考える、やる必要が無いのですi そのままでいい...寝てても、立ってても...無為に過ごしていて悪いか?
表側だけの人生では無為ということが如何に軽んじられていることでしょう。
又、有為的、人為的な思考、行動によって、幸福になれるかどうかは分かりません。意に反してスコタンを食って、今より悪くなることだってあります。
しかし、神的なものにあって、幸福でないことなどあり得ません。これは置かれた境遇など、外側の現象的な幸、不幸に左右されない、内なる、本来的な幸福のことです。
そして、何かをやることで幸福になることも勿論あるでしょうが、その根底には、こういうベースがあるものなのです。

人生には裏があるから表がある...と、いつも当たり前のように書いているけど、こりゃホンマ途方もないことですi
相も変わらず何の役にも立たない私が、そういうこと書かされているんですから...
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エゴを照らすもの

2019-10-15 12:08:54 | スピリチュアル?
"精神的な道を求めて幾十年...信仰も修行も重ね来て、そろそろと人間の真実の姿、神の子に近づいて来たよな、天国の扉も開きかけて来たよな気もしてきた、いやしてこなきゃオカシイのだが、その門に居並ぶように立ちふさがる、幾つもの黒い影...あれは闇の勢力フリーメーソンかイリュミナティか...はた又国際金融機関の黒幕か、ユダヤ人かコミュニストか、正統なるOO先生以外の他宗教の信者か、精肉業者か精糖業者かマックかコークか...あっちが消えたらこっちににょきにょき...あれが消えたと思いきや、いつの間にかこんなにも周りを包囲されていた..."

私はもう結構長いこと精神的な道に関わってきましたが、つくづく感じるのは宗教、スピ界隈にはあらゆるトラワレごとで溢れかえって、まるでトラワレ製造工場みたいだ、ということです。
それでいて当人たちは結構救われていると思っているか、思おうとしてしているようなのです。"救われなきゃいけないんだi"とこれ又トラワレているのです。
何が真我で何がエゴだとか、居るのかどうかも分からない、サタンとか邪霊だとかに何にもトラワレを持たない、"救われない一般人"の方がどれだけ精神的に健全で、救われているように見えるでしょうか?
こういう様態に根強く横たわっているのは、"これが絶対に正しいという思い"でしょう。
そして正しくない、悪しき思いを否定しようとします。しかし、否定しようとすれば、するほどそれは形を変えて転移し、益々増殖して行きます。そうです、ガン細胞のように...
仮想サタンである敵は、幾つもあるように見えますが、実は同じところしか出てこないのです。
それは自分の思い、そうエゴです。(あまりエゴだ、エゴだと言うと、エゴ蔓延状態のスピ界みたいになりそうなのですが...そしてこういうことを言っている人間てーのは、大概自分のことは棚に挙げてるような物言いなのですが、多分自分のことだからそう言えるんだと思います)
エゴはいつも自分は正しく、上に居なければ気が済みません。
こういうのは分かりやすいですが、もっと高度な方になってくる(高いレベルのエゴ? スーパーエゴ? なりたいか?)と、外部に投影したエゴじゃなくて、エゴである自分自身を無きものにしようとします。
そして、色々トライするなどして、"ついに自我を克服しました、私はもう自我ではなく、真我に目覚めたのですi"と思うか、思おうとするかして、真我に成り済ますのでしょう。
これがエゴが思い描いている、神になる道のゴールなのかもしれません。
しかし、そうなることで、神と共なる真我の道は永遠に断たれるかもしれないのです。
自分が神と一つになるか、どうかなど、自分からは何も始められないのです。
同じように自分で自分のエゴをどうとかすることも出来ません。
上記したように、それは"終わりなき戦い"みたいなものだということが分かるでしょう。
ただ、そのことに気付いていることが大きいことなのです。
これだけでどれだけ戦いに纏わる重しから解放されることかi
いや、それすらも出来ないことかもしれません。エゴというのはエゴを絶対認めたくないものだから...
人一倍エゴの強い私が気付けるようになったのは、絶対他者として現臨が臨んだからです。このこと自体が、私、自我の事から思いが離れるということなのです。
自分では出来なくとも、あの"照らされている感じ"というのは、感じられるのではないでしょうか?
感じられる、というのは出来る、出来ないということじゃないのです。
もう、生きることは出来ない、と思ってたって生きているじゃありませんか?
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祈りは念力ではない

2019-10-14 11:20:19 | 祈りと瞑想
この度の超大型台風の来襲にあたって、宗教的な人ならずとも、自身の、周囲の、中にはもっと広い地域への安寧を祈られた方も多かろうと思います。
これはごく自然な人間の感情の発露と言ってもいいでしょう。
たとえそれが"困った時の神頼み"のようなものであれ、危急な時には自然と手を合わせてしまうものでしょう。
しかし、ネットなどを見てたら中にはこんなのも散見します。
"私の祈りパワーで台風を他の地域へ逸らしてみせる..."、"有志の方に集まってもらい、共に被災地へ祈りの波動を送りましょう..."
又、祈りを主体とした宗教運動に古くから関係してるある人などは、自分たちは救われた者で、救う立場に居るのだ、などと思い上がったことを言っているのです。
こういう周囲には思念がうじゃうじゃ取り巻いているようで、関わりたくありません。
これは、祈りというものを、自分の思念でどうにかするもの、念力的なものと勘違いしているのです。
加持祈祷というのは、そういうものと結び付くものですが、祈ることと"祈り倒す"こととは違います。そこで強まってくるのは、当然思念でしかありません。
それはどこまでも、自分の力、思いに依り頼むことであり、自分の思いを越えたものにゆだねることとは真逆のことと言っていいでしょう。
人間はこのような自然災害の前ではとても無力なものです。私はこれを色々な意味で言っているのですが...
例えば、ああいうものに直面した時、そしてその甚大な被害から免れた時、"ああ、私自身、私の地域、日本国に及ばなくて良かった..."と思わないでしょうか?...正直に言おう、私の脳裏にはその時、何度もそんな思いが去来していたのです。
そうです。あなたと同じなんですi...もう細胞レベルでそういう風に刷り込まれているように...
ただ、この台風や大雨に対する危機意識というのは、昔からある程度想定されてあることです。家が突風で吹き飛ばされるか、"ここ"まで浸水が及ばない限りは...
せいぜい、一日食いっぱぐれてしまうくらいで済むだろうくらいのことは...
小学4年の昭和41年9月下旬、ちょうど今回のものと同じような進路で、大型台風が関東を直撃したことがありました。(五井先生の法力?をもってしても避けられなかったのです)
この時、特に私の居住していた、西武新宿線沿線が周囲の河川の氾濫で、甚大な水害に見舞われたことを記憶していますが、オヤジは言いました「ここは高台だから絶対大丈夫だ」と。
私はこの頃から東京山の手特有の地形というのを知り尽くしていたのです。従って我が身の無事のことなど別に祈る必要もないっちゃ、ないかも...そうですよ。
しかし...正直に言おう、だからこそというべきか、危険エリアへの大難がより少なからんことを、祈らざるを得ない気持ちにも一時ながらなったのです。これも自分のことです。私は力なんて何も無いのですから...
私は阪神大震災の時、ごく短期間ながらライフラインがことごとく断たれしまって、不安と恐怖のうちに過ごしたこともあるのです。
当時の住まいから5分も歩かないところに武庫川があり、その向こうでは壊滅的状況になっていたことも目の当たりにしています。
本当の危急な状況とは隣り合わせにある、ということの意味も肌身で知らされているのです。
自分ではよく分かりませんが、"だから"...なのでしょうi
これはあなたと私も同じなのではありませんか?
そう、そしてあなたも私もどんなに綺麗事言っていても、自分に都合のいいことしか思っていない...だから無力でしかないというのですi
どこまでが自分の思いで、どこまでが無心のものなのか?...まあ、自分で無心になれると思っているうちはナニだろうけど...そういうことも何もかも自分の思いを超えたものに向ける...それが祈りというものじゃないですか?
すると、いつの間にか、どっかであの御方とつながる...かもしれない...
神に祈ったって、神が願いを叶えてくれるか、どうかは知りません。けれど、祈ることで、神的なものと共にあることで、たとえ嵐が吹き荒れるとも、平安に導かれることは知らされています。
それは全くもって我々の思いを超えてハタラクものなのです。
我々の念でなく、神の御愛のいや増さんことを...
コメント (2)
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