人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

仏陀の悟り

2021-03-24 12:02:17 | 仏教関連
悟りとは何か?
と、それについて言われているものに接して、いつもそう思わせられるのですが、もうとにかく諸説が入り乱れている、という感じなのです。
この言葉は、そもそも仏陀が悟りを開いた"らしい"ことから始まった"らしい"のですが、肝心の仏陀はそのことについて明言してない"らしい"ことにもその要因がある"らしい"のです。
仏陀は縁起というものを説きました。"あらゆるものは相依相関によって成っており、一つのものがそれだけで成っているのではない。ものが起こるのは縁に依るのである..."と。
このことがどう悟りと結び付くのか、ということを巡っても諸説があるのです。"この縁起というものに目覚めたこと自体がそうなのだ"、というのがあるかと思えば、いや"悟りを開くには、縁起というものを断ちきらねばならない"といったものもあるのです。
後者については、"それではそもそも悟る自分も無くなってしまうではないか?"、という疑問がすぐ生じてしまいます。
そしてこの論者は、縁起を人間関係というものと短絡的に結びつけているところがあるのですが、人間関係には、そうです..."腐れ縁"...くんずほぐれずと、業苦というものが渦巻いているものですね。
縁というものはしかし、すべてがかように業因縁に絡まれたものなのでしょうか?
仏陀は業苦は、我々の"行い"や"思い"によって生じる、と説いていたのです。
この論者はどうも、行いや思いを断ちきる(滅すると言う)ことを、縁起にまでつなげてしまったという気来があります。
思っているだけだったら、縁も断ちきれるし、どんな高遠な真理も説くことが出来るでしょう。
縁起についてもいくらでも考えることが出来ます。しかし、その自分はそれ無しでは存在してないらしいのです。考えて分かるはずがありません。
だから...すべては、"思われたままの自己からは何も為し得ない"というところに行き着き、戻らされざるを得ないのです。
この現実に"目覚め"なければ、思いを超えたものに与ることは出来ないのです。
そして、私がここで縁起や悟りについて分かったような、決めつけたようなことを言えば、きっと諸説入り乱れる中に一枚加わることになるだけでしょう。
相克、対立、憎、怨...の無限の連鎖...これはどこから来るかというと、我執、我見への固執といったものでしょう。
イヤ本当に宗教、スピ界隈にはこれが後を絶ちません。これを業苦とは感じないのでしょうか?
如何にしてこの業苦を断ちきるのか...そこに又、如何とも為し得ない苦しみが生まれる...
"我、自我、我執...こういう固まったものがあるから、そういうもの同士が相寄り合っているから、縺れ合い、苦しみが生まれるのだ..."
この苦しみが本当に自覚されれば、あるいはこの苦しみの裏表にあるもの~縁起というものがどういうものかが示される...かもしれません。
これは全く思われた自己を超えたところから来るものでしょう。滅する主体が私ではあり得ないでしょう。
これもある種の悟りとは言えないでしょうか? 少なくともこうした苦しみの自覚を抜きにしては開かれないのではないでしょうか? 明言など出来ませんが...
仏陀の悟りというものは、案外そういうものだったのかもしれません。
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春の珍事

2021-03-22 11:44:26 | 意識、照明
ここのところ、例の耳鳴りが激しくて、昨日の春の嵐のような豪雨、強風の中でも消されないほどなのでした。
桜の季節というのは、私には昔から心身共に変化が起きやすいということもあるのかもしれませんが、数年前にも、又数日前にも突如、"私は居ない"という感じに、なろうとしてそうなった訳でなく、そうなりました。
これは忘れた頃にやって来るのです。
これをノンデュアリティの境地というのかどうかは分かりませんが、思考も感情も抜け落ちてしまい、そうですね、"ただ、ことが起こっているだけ..."という感じになります。
喜びとか苦しみという感覚も無くなってしまうのです。ですから映画やドラマを観る気も、音楽を聴く気も起きて来ないですよ。
なった人にしか分からないでしょうけど...こんなん、面白い、楽しいと思いますか?
これがエンライトメント、光が全心身を差し込む感じなのか?...違いますよi 、私の感じでは...
私はこんな意識状態など望んじゃいないのです。悟りだか何だか知りませんが、これを目指そう、与ろうっていう人の気が知れませんi きっとそういう人はなったことが無いんでしょう?
余程の苦難を背負い込んでいるような人なら、あるいはそこから救われるかもしれませんが、あの愛、平安にも与れることも無いなんて...
私には、これが別の種類の苦境にも思えてきます。ちっとも苦しかないが...
しかし、自分からは中々そこから脱することが出来ません。思いを変えようとしても、思いが働かないし...
でも、それも長くは続きません。今までの経験では...ずっと続いていたら永眠かネハンでしょう?
こういう状態でも意識の動きというのは感じられるのです。
意識が向けられる、開かれる感じになってくる...
そして、いつの間にかどんよりとした雲が晴れて光が差し込むようにも、虚無的なものに包まれた意識に、ハートの鼓動、生命の律動がよみがえってくる...私の現実在らしめるものが臨んでくる..."私は在る"
ここに得られたり、失ったりすることの無い至福がある...ドラマを観なくても随喜の涙がこぼれそう...

この二通りの意識状態というのは、全く隣り合わせのものです。
虚無的な感じのものはそう滅多にあるものじゃない(望んじゃいないのだから)ですが、これと現臨(望、臨んでいる?)に導かれるプロセスというのは、一連の意識の動きと言ってもいいでしょう。
何か生と死というものがその中に凝縮されているようにも感じられます。
そして、私の目はまだ黒い!...
当たり前のことながら、今は生に与っているのだから、幸福を望むのが自然なことなのです。
生に与っているから、幸福に与っている...
春の珍事っていいますが、春に限ったことじゃないですが、久しぶりの珍事に会い、こういうことを改めて感じさせられたのでした。
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人間が居なければ...

2021-03-20 09:25:01 | 詩的文章
春が来たi
風が新芽の香りを運ぶ
色とりどりの草花が地味を彩る
甘美につられて胡蝶が舞う
小鳥がその到来を告げるように囀ずる
人間は...

出なくていい時に出てくる
集まらなくていい時に集まる
何かが取り決められ、何かが解かれる
何かが広まっても、収まっても...
今はどういう時節なのか?

新しい時...
新しい命...
開花...創造...変容...
まんまで地上天国i
何も変わらない人間世界
このままで終わってしまいそうな人間世界
人間が居なければ...

地上天国ってものがあると言う...
地上天国が来ると言う...
愛する人がそう言っていた...
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内なるものと普遍性

2021-03-18 12:01:27 | スピリチュアル
私の精神的道は、自己の内なるものと普遍的なるものを求めて来た、と言っても過言ではないのです。
この二つのことは、一寸考えると矛盾したもののように感じるでしょうが、私には実に切り離せないものです。
しかし、そのことをハッキリ、分かりやすく説明することはとても困難です。
"感じてもらうしかないi"、とか言ってたらいいんでしょうけど...見える現世にあっては、求むべくもないものとは言えるでしょう。
普遍ということ...それは普遍世界という風に、グローバルな国家や民族や宗教を超えた世界のことを思い描くのでしょうが、現実にそういうものを見い出せるでしょうか?
そういうことを謳っている宗教や、思想団体というものを私もいくつか知っていますが、現実にそのような在り方で展開している例というものを、私はほとんど知らないのです。
大概は、そこにも信仰や思想の壁というものが重く立ちはだかっているのです。
"いいや、ウチの団体には異なった宗教や思想の人たちも来ているのですよi"、という声もあるかもしれませんが、そういう形があったからと言って何になるでしょうか?
その普遍性というものは、私の内なるものから開かれ、響くもの...他との関わりの中で響き合うものなのか?
この故に、この両者は切り離せないものなのです。
多くの宗教で当初はそういう目論見があったであろうように、神というものを掲げることによって、あるいは普遍性というものを我々の心に呼び覚ますこともあるかもしれません。
しかし、それがかえって相対対立、混乱を惹き起こす要因となってしまうものなのですが...
ある団体との関わりにおいて言葉を超えた、生きた神的なものに触れることがあります。
時にその関係者から、"そういうものに与れることが出来るのはここしかありませんi"、という声が聞かれたりするのです。
しかし、それが神的な、普遍的、永遠の生命といったものなのでしょうか?
その霊なるハタラキ的なものは、団体によって微妙に感じ方に差異は認められるものですが、根本的なところは一つのものであるはずです。
唯一無二の私という存在を通して感ぜしめるものだからです。それが内なるものを開くものであれば、どうしたって一なるものに導かれざるを得なくなるでしょう。
これは、言うまでもなく抽象的に語られるものではありません。私に直に目の当たりにされるようなことなのですから...
異なる団体において、こうした多様性を超えた、一なる生きたものが感受される時、そして又私以外の、同様の他者との交わりを通して、あるいはそこに"普遍性"というものの一端に与ることも出来るかもしれません。
それでも、この客観世界にそういうものを見い出せないことには変わりません。まあ、そうなったらきっと神の国の現実に生きていることになるのでしょうが...
つまるところ、内なるものと普遍性という、この不可離のものは神的なものにあって開かれると言うことでしょう。
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与ること

2021-03-16 12:20:55 | 雑感
私はね...無なんですよi...無の境地に達しているんですよi
って...バカ言ってんじゃねえi
言葉としてもそうですけど、おかしいでしょ? おかしく感じなきゃダメですよi
"私は悟った、目覚めた、霊的進化した、真理が分かった..."みんなこれですよi
私がチョイと知ってる五井先生の信者がこないだ「私は長年の"消えてゆく姿"の修行により、全くカルマが出し尽くされたようです」なんて自分のブログに書いてました。
私はほとんどそういう修行はしてこなかったですが、それを深めて行けば、そういう言葉は出てこないものだろう、ということは分かっているつもりです。
この御仁は、真実をはっきり言ってくれるような正師に出会っていないことが不幸なことだと思われます。
"私が..."、というこの主我性に閉じられた精神に魔境の扉が開くのです。正師ならそこをズバッと突くはずなのです。
これは、何度も言うように、思考を超えること、"私が..."という思いが無化されることと関わっているのです。それは言うまでもなく、"私が無になりました"、ということじゃありません。
そして、思いが無化されることで、今生で味わったことの無いような愛、平安に与ることが出来るのです。
そうでなければ自我がそれを取り込むだけでしょう。そこに与る何ものがあるだろうか?
そう、ですからこれは"与る"、という言い回しにならざるを得ないのです。
私をそう在らしめるものあっての私、というのは事実なんだからしょうがないのです。
思われた私からは何一つ始まってこない...どうしても私は自分ではない、神的なものを立ててゆかざるを得ないのです。
もう、我の塊なんだからしょうがありません。そのものにあって、私は無なんですから...何だか自然に小池先生みたいな感じになってしまいました。
"十字架と聖霊は不可離である"、という言葉は、キリスト者である小池先生の言い回しで、それ以外の人にはピンと来ないでしょうが、私には聖霊というもの自体が、思いを十字架にする無のハタラキであることを示されたのです。
しかし、それで思いや業が完全に消えてしまうということは、この現実世界に生きている以上あり得ないでしょう。
これは、要するに目の黒い内は人生の上がり、ゴールなんてのはあると思っちゃダメということなのでしょう。
"与る、与っている"...ああ、何て自由なのだろう..."私が..."が抜けてしまう...吹きさらしになっている、開かれている...
この意味で"悟った私は居ない"...本当にそうですよi
それに与っているから、そう言えるのですi
コメント (5)
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