人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

空は燃えている

2022-09-05 05:55:29 | 独語
神には人格があって、感情をもっているのか、って?
そんなことは分かるはずないじゃないか?!
人間に出来ることは、神について勝手に想像することだけじゃないのか?
人間が神になったようなつもりでね...
だけど、僕は一度だけそれが神の感情なのかどうか分からないけど、何かキョーレツに僕に訴えているみたいなものを感じたことがある...
それは人間が思ってる感情みたいなものじゃない!
何だか分からない!、この世のものじゃない!
そいつは、全くただの感情なんてもんじゃないさ!...
圧倒的だ!、打ちのめされる!、飲まれてしまう!...
そんなにおそろしいものなのか、って?
違うよ!...
そいつは、そうしておそろしく感じている僕に...手を差し伸べようとしているみたいだった...
“恐がることはないんだよ!”、と...
まるで、僕が迷子になって鳴いている子猫で、何とか助けようとしているみたいだった...
ところが、猫はそんな気持ちなど分かろうとしないんだな...
”コワイよ、僕をどうしようってんだ“、ってね!
でも、それは圧倒的なんだ!...段々僕の鎧は解かれて行った...
そして、その手がいよいよ迫ってくると...ダメだ!、もう、逃げられない!
後は、もう何も考えられなかった!
そして、いつの間にか僕は、その手に抱かれたようだった!
何か、この世にはない、信じられないような愛!...それは僕が思っていたような愛じゃない!
そして、何か無限の哀れみみたいなもの...
なつかしい、なつかしい、あたたかいホームに帰ったみたいだった...
僕は帰ったんだ!、ここに居てもいいんだ!

神には感情なんてない、と言ってる人も居る...
そうかもしれない...
だけど、そこに感じたものは、無情とか、虚無みたいなもんじゃ全くない!
空々漠々としたもんじゃない!
何にもない空が果てしなく広がっているようなものじゃないんだ!
夕焼けの空を見てみろよ!
空は燃えているんだ!
赤々と...紫に変わったりもする...
そいつに僕は否応なしに引き付けられちまうんだ!
そいつに僕はどんどん染められていっちゃうんだ!
こりゃあ、全く圧倒的だ!
神に感情があるかどうかは分からないが...
これがなかったとしたら...
人間が泣いたり、笑ったり、喜んだりすることが一体どこから来るのか?
僕にはテンデに分からない!...

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孤独な僕と猫

2022-09-04 08:58:41 | 独語
頼むから、僕のことはほっといてくれ!
独りにさせて欲しい!
“何か助けになることは出来ませんか?“、だと!
じゃあ、助けてくれ!、今すぐここを出ていって欲しい!
僕は人間が嫌いだ、大嫌いだ!
人間関係は煩わしい、不幸、災いの種だ!
一体、人間関係の縺れで、毎日何人の人間が死んでると思っているんだ?
災いだ!、人間はここに誰も居なくていいんだ!

猫のミーちゃん、お前だけだよ、僕の友達は...
いつも、黙って僕に寄り添ってくれる...
静かだなあ!...
“ムニャ~ゴ“...って、アクビしながら相づち打ってら!
可愛いなあ!
ミーちゃん、お前は本当に猫なのか?
僕よりずっと先に死んじゃうのか?
猫の寿命は短すぎるよ!
こんなに可愛いのに...
人命が第一、ペットは二の次って誰が決めたんだ!
どうして分けることなど出来ようか?!
苦渋の決断をしなければならないことを考えると、胸が張り裂けそうになる...
最愛のものを見捨てるなんて!...
だから、訳の分からんことばかりやってる人間などおらんでいいんだ!
そうだろ、ミーちゃん?
“ムニャ~ゴ“...って又!
お前は本当に猫なのか?

一体、何に似ているんだろ?...



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ベルジャーエフ哲学の根底にあるもの

2022-09-03 10:50:48 | 人生の裏側の図書室
ベルジャーエフは、生涯の早い時分から哲学者たることの使命を感じていたらしいのですが、おそらく自分が周囲から哲学者と見なされることを快く思っていなかったに違いないと思います。
そのことは、彼がロシア革命前、円熟期のほとんどを亡命者として送らざるを得なくなる以前に書かれた、初期の代表作とも言える、「創造の意味」(行路社刊)という書物の序章に伺うことが出来ます。
これがもう!...今日にまで及ぶ哲学界を根底から揺さぶる革命的な内容を含んでいるのです!
哲学に関心を持つ者なら必読と言えます! “本、買うの高い!“、と思う人は図書館で借りて読むべし!
読んだらきっと、満干の共感を得るか、頭が噴火するほどの反感で爆発するか、どっちかでしょう?!...中途半端ではいられない!(日和見根性なら読んではならない!)

「哲学は、いかなる意味においても学でなく、いかなる意味においても学であってはならない」
のっけからぶっ飛んでる...哲学というわが国で翻訳された通用語に従えば、これはもう、哲”学“の否定以外の何ものでもないではないか?!
この言葉は、ベルジャーエフを批判した、「彼の哲学はアマチュアの域を出ていない」という言葉を逆手に取れば、公認されている“プロ“の哲学者に向けられているのです。
「哲学者は、何故かくも学的たらんとするのか」これは、世間で認知されている哲学に纏わり付いている、高踏的、ペダンチックな、あのイヤミったらしい精神的態度の打破を意味しているのです。
学的哲学は、論理的思考を重ね、理論体系で固められ、常に論証によって真理(らしきもの)に導こうと図ります。私などは偏頭痛を引き起こすので、それを理解しようにも、読む気さえも起きて来ないのですが...
頭の論理だけで認識される、いかなる真理も私は受け入れることは出来ません。
それは、思いを超えておらず、どこにも落ち着くところがないから...安らぎを見いだせない真理などあるでしょうか?
この哲学の学的偏重の傾向は、ベルジャーエフによれば、精神の高み、深みから来る本来の哲学が有していた頭脳智と区別される、”智”の有り様を失ったためとされます。
「哲学は智を愛する。真の哲学の原動力は智である」
又、学的哲学を常に論証に駆り立てるのは、それが普遍妥当性を指向しているからだと言う。
何かの自然法則のように誰もが納得出来るような真理を論理で証明出来るらしい?
こんなギマンは無い!...頭だけで納得したフリは出来ても、ハートやハラは納得出来まい!
普遍性ということと普遍妥当性とは丸っきり違うことなのです。
ベルジャーエフは、それは、”精神的交わり”を失ったからだと言います。
精神的交わりとは、その訳だけではあまり伝わるものがありません。
これは、一つには端的に霊的交わりのことでしょう。思いを超えた神的な霊なるものとの交流。
さらには、それは、そのこととつながる、彼が”ソボールノスチ(この訳では”普遍調和世界”とある)と呼んでいる、自他の有機的交わりのことを指しているのでしょう。
いずれにしても、それは、神と人間の本源的交わりのことであり、このこと自体が普遍性とつながることを示唆していると言ってもいいでしょう。
これに根差した、学的哲学的論証というものは、あって然るべきでしょう。
問題は、哲学が全人的な有り様から切り離されて、学のための学に終始してしまうことにあると言えるでしょう。
そこに如何に緻密な論理の構築が成されようと、それは基礎を持たない砂上の楼閣の如きものでしかないのではないでしょうか?
ベルジャーエフのその反哲学とも取れる、”哲学らしからぬ哲学“は、本来の普遍性に根差し、それを指向する、”永遠の哲学“の再興に向けられていたのです。
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ベルジャーエフと私

2022-09-02 10:09:12 | 人生の教師
「真の人間性においてあらわれるものは、人間の性質ばかりでなく神自身でもある」
(ベルジャーエフ「神と人間の実存的弁証法」.著作集第六巻所収/白水社刊)

前々回、神と人間の関係について、思うところを書いてみたのですが、あまり意識してはいなかったのですが、どうもベルジャーエフの思想の根幹的な部分とつながる内容になってしまったようなのでした。
確かに超越者(神)と人間実存とのつながりに関する理解は、ベルジャーエフに負うところが大きいと言わねばなりません。
これはしかし、言い表そうにも言葉を持つことの出来なかった私に、言葉が肉化するようにもインスピレーションが与えられた、という感じを持っているのです。
真に、“超越することと実存することは切り離すことは出来ない“、ことを今もヒシヒシと感じながらこれを書いている次第なのです。
又、このことをアリアリと示されることに与った、その端緒がそもそもベルジャーエフの本を読んでいる中での、真の意味での啓蒙(自己の暗部に光が差し込み、照らされること)体験にあったのだから、とても深い縁というものを感じずにおれません。
では、私がこの読書界においてさほど認知されてないであろう、旧ロシア(今のウクライナ)の哲学者のことをどうして知ったのでしょうか?
彼自身が語っている、彼に影響を与えた思想家として、カント、マルクス(多く批判の対象にされているのであるが)、ドストエフスキー、二ーチェなどの名を挙げることが出来るでしょう。
いずれも、哲学思想に関心無くとも知らない人は居ないであろう、高名な思想家ばかりですが、私は彼を知るまで、その誰の本をも読んだことはありません。
否、哲学思想関係の本は、プラトンの「ソクラテスの弁明」を僅かにかじっただけで読んだことが無いのです。きっとこれに怪訝な、あるいは驚きの感情を持たれる方もおられるでしょう。何せ、小難しい屁理屈ばかり並べ立てる哲学なんてシロモノは、私の肌には合わなかったのです。
もう、タイトルを見ただけで偏頭痛が起こりそう...“あに~、「神と人間の実存的弁証法」だとお!“...ベルジャーエフ?、ハテ?、え!、訳者小池辰雄!、これかあ!、どれどれ...“
と、昭和54年秋、その池袋にあった大型書店でその本を見つけて、立ち読みしてみたのです。
“おっ、これは読めるぞ!、買っちゃえ!“
どうせ、買ったって読まないだろうとは思いながらも、小池先生所縁だし、思い切って求め、喫茶店で腰を落ち着けて読んでみました。
“うん、うん、やっぱりこれは読める!、何が書いてあるかサッパリ分からないが...“
と、何かぐいぐいと引き付けられるのを感じて読むともなし、眺めるともなしという時間を過ごしたことを今でも思い出します。
ところが、これに気を良くして他の哲学書をかじってみると...“あかん!、偏頭痛がして来て読めん!“
この違いはどこにあるかはハッキリわかります。論理的か、超論理的?(ベルジャーエフ)か、という文章スタイルの差も大きいですが、彼は思いを超えた世界に開かれた、ある意味“哲学者らしからぬ哲学者“だったということです。
それが、私が初めて本格的に取り組んだ哲学書、共感した哲学思想家だったという訳です。
上記した理由で、あまり多く哲学に接したことはありませんが、かくも私の実存を映し出す思想家には他に出会ったことがありません!...
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開かれるということ

2022-09-01 04:27:43 | 哲学・思想
私はよく、“開かれる“という表現を使います。
これは、どういうことを言っているのかと言うと...て、書こうとしていたらそういう状態になります。開かれた状態になるということ。
このことをもし、足りない頭を使って論理的に説明しようとすると、多分閉じた状態になると思います。
これは端的に、思いを超えた方に開かれる、それが超えられずに固着してゆく方を“閉じられる“、と言っているのです。
ですから、現臨にあるということは、開かれた状態であるのは言うまでもありません。
これは、意識が自然とそのように動くということを表しているのです。
逆に、閉じられるという場合は、そこにブロックがあるということです。
“この教え以外に真理は無い!“、“あなたの前世は、○○だ!“、神に至る道には、7段階(何段階だろうと、そういう道があろうとなかろうといいじゃないか?)がある!“...あらゆる断定的な言い方に私は、ブロックを感じずにおれません。
意識を神に向ける、と又私は言いますが、それは神をイメージする、思い描くということとは少しく違います。必ずしもそれで“開かれる“とは限らないのです。
神は思いを超えたものなのだから...言い換えると、思う以前からある...だから、“自ずと向けられる“という方が本当でしょう。
では、開かれている時、何も考えていないのかというと、悟った訳でもなし、勿論そんなことはありません。(何も考えられなくなるのは、神にすっかり捉えられて、日常の意識状態で無くなり、思考機能を失った時の話です)
何も考えてなくて、こうして書いてられるか、ってんです。お筆先を書いてる訳じゃあるまいし...
私は全く論理性を欠いており、思考の組み立てが全く出来ない人間ですが、ある程度、論理的っぽい、それっぽいことを書くことも可能です。
それはしかし、その時意識が“開かれたもの“と切り離されておらず、“開かれた方“へ、その論考っぽい“ものが向けられているからなのです。
そうでなければ、そういう思考表現自体出て来ないでしょう。意識が自ずと動くということがありません。
あの孫悟空の輪っかのしめつけを待たずとも、拒絶反応が起きようというものです。
要するに、そういうものは、開かれたものあってのものなのです。
仮に、開かれていない、思考の限界内に閉じられたままの真理というものが果たしてあるのでしょうか?
そこで如何に、論理的整合性が示されようと、それだけで真理が示される、などということがあるでしょうか?
少なくとも、私の意識がそちらに動くということは無いでしょう。
そこに愛、安らぎ、リアリティといったものは感じられないから...どこにも落ち着かない真理などあるのでしょうか?
それなら、真理の追求などどっちでもいいです!...落ちることが無いのなら!

落ちた?!...これでお開き!(何でそう言うんだろ?)
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