人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

ブッダとダンマ

2022-10-22 09:52:03 | 仏教関連
「目覚めとは、個人ゴータマのなかに超個人的な法.ブッダが顕現したことであり、躍動していることである。...目覚めそのものは、もはやゴータマの個人を超えて、永遠のものとなり、世界そのものとなり、我々自身の現実の世界のものとなっている」
(玉城康四郎「瞑想と経験」/春秋社刊)

悟りというものについて、どのような心的境地を連想されるでしょうか?
例えば、無所有、自分のもの、所有という感じが全く無くなった境地...あるいは、煩悩はもとより、自分の思いというものが全く無くなった境地(いつも言ってる現臨にある状態というのは、その端緒となるものではあれ、直ちにそんな状態になることとは違いますよ。念のため)などを思い浮かべる人も多いでしょう。
しかし、ブッダは涅槃に入る以前、上記の境地を体得したとされる二人の仙人について、同じように体得したにも関わらず、“それは自分が求めているものではない!“、と、それぞれ立ち去ってしまったのですよ!
悟りと仏教は、すぐ結びつけられるものですが、このことは、如何に悟りというイメージばかりが一人歩きしているか、ということを如実に物語っているようです。
しかし何故、それがブッダが求めていた境地と違っていたのかについては、経典には述べられていないのです。
従って、それは想像する他無いのですが、玉城先生が仄めかしていることに深く共感を覚えずにおれません。
それは、無所有、非想の境地は、いずれも深い心境にあるものとはいえ、いずれも自分の内面の深まりを伝えるものであり、言わば自己の世界内に留まったものではないか?、自己の“思いを超えた境地“ではあっても、それは、“自己を超えた“世界へと導くものではなかった、のではないか?
微妙な言い方の違いですが、これはとても重要なことです。つまり自己世界に留まるものか、自他の世界、ひいては普遍世界へと開かれたものか、ということです。
ブッダの心根には、自分以外の衆生との関係性といったものが見据えられていたのではないでしょうか?
その縁起観というものも、ここから導き出されたのではないか?
しかし、こうしたものがブッダの悟りである、ということはやはり経典に明言されてないので分かりません。
きっと、ブッダ個人の悟りのことなどどうでもいいことなのでしょう?
ここに仄めかされてあるのは、悟りであれ、涅槃であれ、ブッダ個人の力によっては、導かれ得なかったということでしょう。
それはブッダ個人を超えた、法~ダンマによって為さしめられたことの何ものでも無いでしょう。
ブッダの悟りとされているものは、その実ブッダを超えたものであったのです!
それにしても、何故ブッダは成道以前に、そのことを“悟って“いたのか?
サッパリ分からない!...
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神についての結論(の如きもの)

2022-10-21 11:54:48 | 

“神は人の思いを超えている“
我ながらホントくどいな、と思います。
でも、こうしていつも書いていて、感じることはそういうことばかりなのです。
神は思いを超えているということは、”神のことは分からない!”と言っているに等しいのです。
私は幼い時から神を信じ、求めて来ました。
だけど、未だに神について分かったことなどありません。分かったつもりになったことなら何度もありますよ。
神は唯一神、多神、汎神...と様々な宗教で、異なる神が説かれ、そのいずれかが正しいと判断して、各々の信者はその宗教に従って行きます。
彼らは、自分なりに神についての何か結論を得たのでしょうか?
結論とは、頭の中だけで何らかの決着をつけたつもりになるというだけのことではないでしょうか?
”神など居る訳ない!”、と決め込む人もホントはどうか分からないはずなのに、そういうことにしているのでしょう。
人は何故、そうして結論を求めようとするのでしょうか?
何か不安、恐怖があるからではないでしょうか?
神?、何かの霊?、得たいの知れないもの(こう感じさせるものの多くは、得たいの知れない宗教からイメージされるようです)...それに捉えられると自分は、どうなってしまうのか?
だから、神のことは分かってから信じよう!...いつ分かるのだろうか?
どっかで手打ちにしないとならない、落ち着かない。
しかしそこに、本当に”落ちる“、ということがあるでしょうか?
落ちるところに落ちる...これは”落ちた!“と思うことじゃありません。体はまだどっかに置き去りになってたりして...
それは、自分のすべてが安らぐこと...つまりはそこで思いは超えられるのです。
愛、安らぎがある!...だったら、分からなくてもいいではないか?!
神?、いや極端な話、サタンだっていい!...このものの他に本当に落ち着くということは、どこにも見い出されないのだから...
神についての結論(の如きもの)...もう、結構なトシになって、やっと神は決して分からないものだ、ということが分かった!(気がします)

コメント (13)
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神の目は誤魔化せない!

2022-10-19 10:02:04 | 意識、照明
私はどんなに狡猾に人の目を誤魔化し、自我意識が強くないように見せかけたりしても、自分自身では分かっているのです。私の目は誤魔化せない!
神の目も!...“そんないつまでも、エゴを出しちゃダメじゃないか!”、な~んて、お咎めなど聞いたことありませんが...そういうのは、誤魔化しを暴こうとする、神のフリした良心みたいなものの声なのです。
“誤魔化すな!”、というのは他を糾弾することみたいですが、そういう何もかも見通したような目も見られているのです。
一つ言えることは、それはどこまでも“私じゃないもの“、ということです。
すべてのなりすまし、フリは見通されている...そこにはどこまでも“ゆるし“があるのではないか?
自分の思いを超えた、神的なものに見られているような感じというのは、ただこちらを、ありのままの自分を照らし出すだけなのです。ありのままということは、そこに善い悪いとかはありません。
しかし、それがどれだけの恩恵をもたらしてくれることか!
自分の”ガ”の思いからは、その自我性に気付くことも出来ないし、歯止めをかけることも出来ないのです。
私を照らし出しているものがある...私は好んで実存という言葉を使っていますが、それもすっかり思いと同化している”ガ”からは、捉えることなど出来るはずもなく、実にこの”おてらし“にあって、写し出されるということなのです。
そして、気付けるということは、留まることが出来るということです。
反省などと言うと、倫理的なことと結びついてしまいますが、ただその“おてらし”を受け入れるというだけのことです。
それは、“エゴをあからさまに出すのは、ヨクないから反省して心を入れ換え、改めなければ!“、という意志的な倫理観から来るのではなく、自ずと抑えられてしまうのです。
何故ならば、心が自然と安んじてしまうからです。そう...そこには、愛、安らぎがある!
この照らすもの、照明と私が呼んでいるものは、いつも言うように現臨感のある側面を言い表しているに他なりません。
自我が強いことは悪いことなのでしょうか?...それは私の宿命、いや人類の宿命と言ってもいいではありませんか?
倫理、それに伴う法的なことも必要であるのは、論を待たないことでしょうが、ただことの善悪にとらわれているだけでは見えてこないものもあります。
それは、愛、平安に与ることが出来ない、ということに尽きるでしょう!
自我がのさばればのさばるほど、それをもたらすもの、神的なものは顕わになってきません。
それに与るには、いやその当体ともいうべき神と一つになるには、自我をひっこめなければならないのです。
だから、“ガ“は出しちゃイケナイ!...なんて言ったって、出るから”ガ“なんでしょう?
だからだから...それをひっこめ、お出ましになる方をお呼びすればいいのです!
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自我意識が強いって何だ?

2022-10-17 09:53:00 | 独語
私は自我意識が強い...と思う
ん...しかし、本当にそうなんだろうか?
本当に自我意識の強い人間ってこういうこと自分から言うだろうか?
多分、私がそうだからか(?)、エゴの強そうな人間てのはすぐ目につくものだ
いやいや、誰の目にもつきやすいのかもしれない...
彼らの言動は、人の目を意識させることに重きが置かれているのではないか?
自分が得意なこと、成したこと、主張したいこと...ひたすら承認を要求している...
たとえ、自分が間違ったとしても、けっしてそれを認めようとしない
それにより、不適切なことをやったりしても反省しようとしない
常に自分は正しいという姿勢を見せようとする
反省しようにも、彼らは自分自身を省みるということがあるのだろうか?
良くも悪くも、ありのままの自分を認める、受け入れる...
ありのままでない、正しい自分しか認めようとしないのではないか?
彼らには多分、この言葉は理解出来ないだろう...その意味というよりも、それがどういうものかということが...
それは...”実存”
こんな訳の分からないことなどとは縁の無さそうな彼らは実に分かりやすい!
そこへ行くと、私は自分が言ってるほど人からは、自我が強いとは思われてないらしい?
だって、そう思われてしまうことは、なるべく表に出さないようにしている訳だし...
何せ弱点なんだから...(分かりやすい人たちにとってそれは一体何なのだろうか?)
要するに、私はよく分からない人間なのだ!
そう思わせているんだ!
これでよし!...ことは見えないところ、裏側で遂行されるって訳!
ふっ、はっ、はっ、はっ!...
何がって?
それはね...って、オイソレと言える訳ないだろ!
まあ、いつの間にか何かがひっくり返ってた!、っていうようなことじゃないのかなあ?
だからね...”私は、自我が人一倍強いんです!”
な~んてことは、テキトーに何かで包んで言ってたらいいんだ!
みんなの目は分かりやすい方に行く訳だし...
連中は、スケープゴートなのだ!
もっとも連中は、”私の代わりに自分が自我が強いと言ってくれてありがとう”、と言ってるかもしれないが...
彼らは自分では、自分が自我が強いとは思っていない?
もしかして、自我意識がどういうものかすら分からないのかもしれない?
その点、私はね...やっぱり思ってる、知ってるよ!
でなきゃ、こういうことは書けまい!
て~と...あれ?
自我意識が強いってどういうことなんだろう?
サッパリ分からない!...


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私じゃないこと

2022-10-16 10:01:14 | 雑感
“意識を向けると、パッと現臨が顕わになり、思いが離れてゆく...“って、誰がそんなぶっ飛んだこと言ってるのか!、と思いますよ!
私には小さい頃から、例えばショッキングな光景とかを何かで目にしたり、何かをやらかして人からそれをとがめられたりすると、ずっとそのことが頭から離れなくなるという、思念が容易く固着する気質があります。
“いやあ、かつてはそういう気質だったけど、修行したことで変わることが出来ました!“...な~んてこた、無いんです!
つい先日もそういうようなことがあったりで、人間の性格なんてそう変わらないものだ、とつくづく感じました。
言えることは自我意識が人一倍強いということでしょう。
ただ、私はこうした自分の性格上の欠点は自覚しているつもりです。いや本当に自覚していたなら、克服出来るかもしれません。
この思いのことは、ヘンな言い方ですが、本当に私の思いを超えた、あるいはその暗い底から来ると感じざるを得ません。
心の表層で思い方、心持ちを変えようとしても、どうにもならないことなのです。
だからこそ...思いを超えたものに意識が向けられる(このことを何度書いて来たことか!)、その意味を如実に知らされるのでしょう。
その自我意識の強い私が陥り安い、致命的なアヤマチにも意識が向けられます。これは、何度かそういう迷いに囚われたことで示されていることなのです。
それは、自己を超えた、真の主体ともいうべきものに、その自我が取って替わるということです。
”自我よ!、お前の魂胆は分かっている!、お前の策謀は常に見抜かれているんだ!”...って、そういうお前は誰だ?”
そうとも、それは”ワタシ”です。自我だから私なのです。
”他に何があるというのか!...神とか真我とかのことは知らない、分かるわけが無い!...
しかし、神的なものがこの私に通るということは知っている。...通ってしまった!...思いが離れてゆく...これは全く私からは出てこない、私じゃない、私を超えたところから来るのだ!”...

と、いうようなことを性懲りもなく書いてますが...
”私じゃないこと”を書いてたら、こういうことに与れる訳で!...
ヘタな心の訓練とかよりブログ書くことだったりして...

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