他人を見て 外見的に「楽しそう」だったり 「豊かそう」だとしても それは外見を取り繕っているだけに過ぎない可能性は充分にある
他人との外見的比較というものには根拠がなく あくまで物質的な豊かさしか判別がつかない
個人における本当の「充足」や「満足」とは あくまで個人的で主観的なものであって 他人と比較することは構造原理的に不可能である
なぜならば 安心満足とはなどの脳内物質が大脳辺縁系の反射によってもたらされるものであって これは他人とは共有不可能な個人的なものに過ぎないからだ
脳が別物である以上 どんなに他人と共有共感したような感覚を得ても それは錯覚に過ぎない
作家の又吉直樹はこう述べたことがある 「これを言うと皆に気持ち悪がられるんですけど 本当は他人の気持ちはわからない」と
真実は必ずしも気分が良くなるわけではない
外見からは物質的な豊かさしか推し量ることはできないため 他人との比較では本当の個人的な精神的満足充足とは相関がない
「自分は凡人だから 落ち込む」だとか 「幸せそうな他人を見て羨ましい」というのは他人との関係性に順位序列を求める欲求に因るものであって 本質的な幸福である精神的満足充足が何かを「忘れている」か 「知らない」からである
要は錯覚に過ぎない
それこそ 「幸せそうな他人」を攻撃したところで自分の境遇が満たされる訳でもないのに暴力で解決しようとするのはトンチンカンな錯覚妄想以外の何ものでもない
世の中には不公平や理不尽なことは存在していることは確かであるが その原因を論理客観的に究明して地道に具体的に改善しないことには不公平や理不尽は解消しない
目の前の外見的に「幸福そうな他人」との比較で自分を不幸だと嘆き錯覚しているのは意味がない
実際の世の中には絶望的に不幸な境遇の人というのもいて ミャンマーのロヒンギャ難民のように親族全員虐殺されて幼い妹を抱いて命からがら逃げ回っている子供というのもいる
太平洋戦争のさなかであれば 日本でもにたような境遇は山ほどあったのだ
広島長崎の原爆犠牲者や 沖縄戦犠牲者達の境遇からすれば 貧乏だの「思ったとおりにならない」だのは不幸のうちに入らない
むしろ 純粋に個人的に楽しめることに熱中していれば 「思ったとおりにならない」こともまた楽しみの一つとして捉えることができるのである
たとえ個人的に楽しみ熱中できることがあるとしても 近所の子供が酔っぱらい運転で轢き殺されていたのでは楽しみも何もわからなくなるものである
それなら 本当の幸福とは何かと言えば 自分よりも恵まれていない他人をどうやったら救うことができるのか どうしたら理不尽な暴力や事故が減らせるのかを考えることの方が「人間」として正しいと言える
目の前の表面的な「物質的豊かさ」に惑わされることなく 本当の不幸を解消しないことには誰も本当の幸福は得られない
犯罪者を多数で糾弾しておけば 気分的には正義の鉄槌を下した快楽に溺れることで満足することはできるであろうが それで理不尽な暴力がなくなるわけもなく むしろ「罰」という名の合理性のない暴力威圧によって本当の原因は「なかったこと」にされてしまうのである
バカがバカを殴って満足しているだけなので 本質的には何も解決しない
刑法廃止とは言っても 警察による取り締まり自体をなくすわけではなく むしろ刑法罰を後回しにして危険性の予兆段階から関与できることによって予防的対策にも取り組むことも可能となるのである
満員電車で包丁振り回すバカを取り押さえて社会から隔離することは必要だが 罰を与えてもバカが治るわけではない
もし社会に復帰させるのであれば 判事が法手続きに基づいて勝手に決めた「判決」は犯罪者更生において合理性がなく 実際再犯率は50%近く存在しているのであり ほとんど意味がない
判事が「更生の余地あり」とみなしたところで 本当に更生するかどうかは誰も責任を負わないのが現状の刑法裁判の実態である
誰も責任を負わず 具体的な再発防止にもつながらない制度手続きだけで「解決」にされている無責任さを 放置している民衆にも責任の一端はある なぜならこの国は一応制度上は民主主義を導入しているからである
犯罪者に更生の余地があるのかないのかは 本当は実際に「治療」してみないことにはわからない
どんなに軽微な犯罪であろうと 被害が少なかろうと 重大な被害を及ぼす危険性があるなら徹底して更生治療を行ってから社会復帰させるべきであり 刑事裁判による「判決」には社会的な意味としての安全性の保証が何もないのである
被害が何度繰り返されても 検察や判事にとっては「知ったことではない」のである
検察や判事は法律に基づく手続きさえしておけば「業績」であって 再発防止や原因究明には何の興味も持たない
「法律は人類の財産だ」などと称して 価値のない飾り物に過ぎぬ刑法にすがって実効性のない制度に依存することをやめられないのは 根拠のない因習に対する感覚的安心感による錯覚に過ぎない
「ヒトは 永く続くことは永遠に続くと錯覚しがちである」とは 経済心理学の見解であり これは経済活動に限ったことではない
そもそも「経済」の真意目的が「民を救う」ことである以上 むしろ社会安全性の追求こそが「経済」それ自体なのである
世の中が理不尽であることを理由に 理不尽な行為が正当化できるわけではない
「地下鉄に毒ガス撒けば人類の救済だ」とか 「大量殺人をすれば解決だ」といった短絡的でバカげた結論しか導き出せないのは 物事を深く考える知能が全く働いていないからである
著しく考えの浅い重大なバカが出てきてしまうのは 大衆の大半が浅い考えしか持っていないからであり 「バカの温床」になっているのである
ヒトの多くは多数がバカなら自分もバカでも許されると「思って」いるが 社会の問題は「許す許さない」の話ではなく 問題自体が解決するかどうかは個人の判断に依るものであり 主観的安心満足とは無関係なのである
Ende;