書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

バカの温床

2021年08月09日 14時00分02秒 | 意識論関連

他人を見て 外見的に「楽しそう」だったり 「豊かそう」だとしても それは外見を取り繕っているだけに過ぎない可能性は充分にある

他人との外見的比較というものには根拠がなく あくまで物質的な豊かさしか判別がつかない

個人における本当の「充足」や「満足」とは あくまで個人的で主観的なものであって 他人と比較することは構造原理的に不可能である

なぜならば 安心満足とはなどの脳内物質が大脳辺縁系の反射によってもたらされるものであって これは他人とは共有不可能な個人的なものに過ぎないからだ

脳が別物である以上 どんなに他人と共有共感したような感覚を得ても それは錯覚に過ぎない

作家の又吉直樹はこう述べたことがある 「これを言うと皆に気持ち悪がられるんですけど 本当は他人の気持ちはわからない」と

真実は必ずしも気分が良くなるわけではない

 

外見からは物質的な豊かさしか推し量ることはできないため 他人との比較では本当の個人的な精神的満足充足とは相関がない

「自分は凡人だから 落ち込む」だとか 「幸せそうな他人を見て羨ましい」というのは他人との関係性に順位序列を求める欲求に因るものであって 本質的な幸福である精神的満足充足が何かを「忘れている」か 「知らない」からである

要は錯覚に過ぎない

それこそ 「幸せそうな他人」を攻撃したところで自分の境遇が満たされる訳でもないのに暴力で解決しようとするのはトンチンカンな錯覚妄想以外の何ものでもない

世の中には不公平や理不尽なことは存在していることは確かであるが その原因を論理客観的に究明して地道に具体的に改善しないことには不公平や理不尽は解消しない

目の前の外見的に「幸福そうな他人」との比較で自分を不幸だと嘆き錯覚しているのは意味がない

実際の世の中には絶望的に不幸な境遇の人というのもいて ミャンマーのロヒンギャ難民のように親族全員虐殺されて幼い妹を抱いて命からがら逃げ回っている子供というのもいる

太平洋戦争のさなかであれば 日本でもにたような境遇は山ほどあったのだ

広島長崎の原爆犠牲者や 沖縄戦犠牲者達の境遇からすれば 貧乏だの「思ったとおりにならない」だのは不幸のうちに入らない

むしろ 純粋に個人的に楽しめることに熱中していれば 「思ったとおりにならない」こともまた楽しみの一つとして捉えることができるのである

たとえ個人的に楽しみ熱中できることがあるとしても 近所の子供が酔っぱらい運転で轢き殺されていたのでは楽しみも何もわからなくなるものである

それなら 本当の幸福とは何かと言えば 自分よりも恵まれていない他人をどうやったら救うことができるのか どうしたら理不尽な暴力や事故が減らせるのかを考えることの方が「人間」として正しいと言える

目の前の表面的な「物質的豊かさ」に惑わされることなく 本当の不幸を解消しないことには誰も本当の幸福は得られない

犯罪者を多数で糾弾しておけば 気分的には正義の鉄槌を下した快楽に溺れることで満足することはできるであろうが それで理不尽な暴力がなくなるわけもなく むしろ「罰」という名の合理性のない暴力威圧によって本当の原因は「なかったこと」にされてしまうのである

バカがバカを殴って満足しているだけなので 本質的には何も解決しない

刑法廃止とは言っても 警察による取り締まり自体をなくすわけではなく むしろ刑法罰を後回しにして危険性の予兆段階から関与できることによって予防的対策にも取り組むことも可能となるのである

満員電車で包丁振り回すバカを取り押さえて社会から隔離することは必要だが 罰を与えてもバカが治るわけではない

もし社会に復帰させるのであれば 判事が法手続きに基づいて勝手に決めた「判決」は犯罪者更生において合理性がなく 実際再犯率は50%近く存在しているのであり ほとんど意味がない

判事が「更生の余地あり」とみなしたところで 本当に更生するかどうかは誰も責任を負わないのが現状の刑法裁判の実態である

誰も責任を負わず 具体的な再発防止にもつながらない制度手続きだけで「解決」にされている無責任さを 放置している民衆にも責任の一端はある なぜならこの国は一応制度上は民主主義を導入しているからである

犯罪者に更生の余地があるのかないのかは 本当は実際に「治療」してみないことにはわからない

どんなに軽微な犯罪であろうと 被害が少なかろうと 重大な被害を及ぼす危険性があるなら徹底して更生治療を行ってから社会復帰させるべきであり 刑事裁判による「判決」には社会的な意味としての安全性の保証が何もないのである

被害が何度繰り返されても 検察や判事にとっては「知ったことではない」のである

検察や判事は法律に基づく手続きさえしておけば「業績」であって 再発防止や原因究明には何の興味も持たない

「法律は人類の財産だ」などと称して 価値のない飾り物に過ぎぬ刑法にすがって実効性のない制度に依存することをやめられないのは 根拠のない因習に対する感覚的安心感による錯覚に過ぎない

「ヒトは 永く続くことは永遠に続くと錯覚しがちである」とは 経済心理学の見解であり これは経済活動に限ったことではない

そもそも「経済」の真意目的が「民を救う」ことである以上 むしろ社会安全性の追求こそが「経済」それ自体なのである

 

世の中が理不尽であることを理由に 理不尽な行為が正当化できるわけではない

「地下鉄に毒ガス撒けば人類の救済だ」とか 「大量殺人をすれば解決だ」といった短絡的でバカげた結論しか導き出せないのは 物事を深く考える知能が全く働いていないからである

著しく考えの浅い重大なバカが出てきてしまうのは 大衆の大半が浅い考えしか持っていないからであり 「バカの温床」になっているのである

ヒトの多くは多数がバカなら自分もバカでも許されると「思って」いるが 社会の問題は「許す許さない」の話ではなく 問題自体が解決するかどうかは個人の判断に依るものであり 主観的安心満足とは無関係なのである

 

 


Ende;

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反証の必要性もない客観的事実

2021年08月09日 11時34分03秒 | 意識論関連

嘘か真実かを見分けられてこその「意識」である

嘘を鵜呑みにしていて「意識」もスッタクレもないのである

 

ヒトの多くは主観的気分感情を意識の本質だと錯覚しており

また 心理学では「他人からの見た目に対する感情」を「自意識」などと形容しており これがさらに意識の本質を撹乱し 訳のわからぬ話を学問であるかのように錯覚させているのである

 

嘘なのか 真実なのかを区別するのは 論理検証性(理性)である

論理的根拠に基づいて より「真実らしい」話の方を根拠にすることで 社会の安全性や効率を向上させることができる

ここで勘違いされては困るのは 「効率至上主義」と称して「利己的金儲け」こそが「効率」だという解釈をするバカが後を絶たないが 「経済」という言葉は「経世済民」の略であり 経済の目的は「民衆を救う」ことであって 利己的金儲けのことではない

アダム:スミスによる「見えざる神の手」などという根拠の乏しい神話の類いを鵜呑みにし 「利己的金儲けさえしておけば社会全体が潤う」などという解釈に基づいているからこそ 効率=経済=利己的金儲け=理性という方程式を鵜呑みにしてしまうのである

理性を追求すれば 利己的金儲けには意味がないことに気づくことができる

なぜならば 利己的金儲けをどんなに行っても 社会持続可能性や安全性が担保できない限り 全ては無意味に陥る可能性が存在するからであり また ヒトは誰しもが必ず死ぬのであって 別に永遠に生き続けなければならない理由も 意味も存在しないのである

 

個人が生き続ける「理由」や「意味」とは 生きていて楽しいと主観的に感じ 安心して生き続けることができるからである

先天的欲望を満たすことができることによる快楽(脳内の快楽物質)によって ヒトは生き続けていることに意味や価値を見出すことができるのである

とは言え 特定の欲望だけを満たしても人生全体における満足にはならない

食欲に溺れて暴飲暴食を繰り返して生活習慣病になってしまえば 全然「望んだ人生」にはならない

性欲に溺れて強姦を繰り返していれば それはただの狂人に過ぎない

ヒトには意識があり 自分の行動を客観的に見ることが可能であり これはヒトである以上逆に回避不可能なものでもある

暴飲暴食に溺れる狂人に 自分が陥っていることに気づけば 到底自己肯定などできないであろう

特定の欲望に溺れ 社会的責任を追わないバカしかいない社会であれば 社会安全性も持続可能性も担保されないことは当たり前の話であり 本来であれば皆が自律的に社会的責任判断選択を行う社会こそが理想である

本当の自己肯定というのは 自律的に社会的責任を負うという責任感に基づくものであって 他人からの評価承認とは無関係なものである

ところが ヒトというのは目先の欲望に流され 社会的責任よりも利己的欲望によって社会の理想を見失い 社会的迷惑をも省みることを簡単に忘れて 特定の欲望に取り憑かれ中毒執着に陥る習性がある

特定の利己的欲望を満たすために最も有効で「効率が良い」のは嘘をつくことである

そして嘘を鵜呑みにして騙される方にも問題がある

詐欺は騙される方にも責任がある

嘘であることが理解認識可能でありながら 検証することを放棄する無責任さが存在するからである

視覚障害者に対して黒いものを「白いものだ」と嘘をついても 構造的に嘘を見抜くことはできない以上 この嘘に騙されることに責任はないが

視覚に障害もないのに黒いものを「白いものだ」という嘘を鵜呑みにしているのは無責任であり バカである

社会がバカだらけであれば安全性も持続可能性も一切担保されることはない

「人類の救済」などと称して地下鉄毒ガステロを行うのも 一言で言えば「バカだから」である

嘘を嘘だと見抜けないからバカげた行動で社会に迷惑をかけることになる

 

ヒトの脳には錯覚というものがあり 黒いものであっても白いと勘違いすることがよくある

しかし 錯覚というものは論理客観的に検証すれば 錯覚を錯覚だと自覚認識することが可能であり これを怠ることもまた社会的無責任の一つに該当する

遺伝的進化という自然界の「結果」に過ぎない現象を あたかも人類の目的であるかのようにそそのかすのが遺伝的進化万能論であり フランシス:ゴルトンによる優生学はこれに基づいた誤謬(嘘)である

遺伝的進化というものは過酷な自然環境下における強力な淘汰圧力によって促されるものであって 変異自体に方向性もなく そこに「目的」など存在する理屈は全く成立しない

ヒトという種の生物は ヒト以上の何者かに遺伝的に進化する構造はなく また必要性もない

遺伝子変異というものは勝手に起きる偶発的なものであり 何らかの「目的」に則って都合よく起きるものではなく たとえ先天的に何かの能力に劣っていたとしても 他人にその生殺与奪の権利は存在しない

 

先天的に存在する錯覚を 錯覚として自覚認識するのは論理検証性(理性)である

動くはずのない紙の上の印刷が動いて見えることが錯覚だと認識できるのは 論理的に「印刷模様が動くわけがない」と理解可能だからである

「地下鉄に毒ガスを撒くことが人類の救済だ」とか 「刑法判決で解決だ」といった嘘を 嘘として見抜けなくなるのは 錯覚という主観的感覚が論理客観性よりも優位に働いてしまうからである

 

錯覚に基づいた行動には合理性がない

ネコは鏡に映る自分の姿を自分だと認識できないために 意味のない威嚇を延々と繰り返す

ネコの知能では その程度の理解力しか先天的に存在しないからである

 

先天的なり脳疾患なり 認知機能に何らかの理由で理解能力が欠如していて錯覚を錯覚として認識できないのであれば これは「視覚障害者に物体の色が認識できない」のと同じであるから責任はないが バカというのは理解認識可能でありながら理解しようとする意思自体が欠如していることによって 社会的責任を放棄しているのであって これは責任が存在する

「地下鉄に毒ガスを撒くことが人類の救済だと錯覚していたんだから 悪いのは錯覚であって俺に責任はねぇ」という主張は成立しないのである

嘘を嘘だと 錯覚を錯覚だと認識しなくなる原因は 主観的気分感情である

気分的に錯覚を錯覚だと認識したくないからこそ ヒトは簡単にバカになる

嘘や錯覚を鵜呑みにしておいた方が気分が良い場合 気分が良くなることの方を信じたがることによって 真実を見ないようになる

目先の自分の気分感情(欲望)が優先することによって 社会的責任としての「嘘を見抜く」ことを放棄しているのであり 犯罪者の行動と構造的には同じものである

錯覚は先天的なものである

自然界における淘汰圧力の結果として 遺伝的進化によって残った思考のバイアスが錯覚の原因であり 遺伝的進化というものは決して万能なものではなく 様々な錯覚という欠陥も遺伝しているのである

原発の危険性が放置されたことも ミャンマー軍事政権や香港警察による民衆弾圧も 兵隊や警官の権威服従性バイアスによる錯覚が促されているものであって 個人が自律的な社会的責任を負う判断よりも権威に服従することを優先したがる目先の安心(欲望)に基づくものである

どんなに複雑で巧妙であっても 盲目的服従による統率協調行動習性は理性ではなく 合理性の論証にはならない

 

多くのヒトは本能のままに行動することの方が健康でいられると勘違いしているが 本能のままに暴飲暴食を繰り返しておいて健康もスッタクレもあったものではない

ヒトが塩分や脂肪や糖分を過剰に摂取したがるのは かつての生息環境が塩分や脂肪や糖分が乏しい環境において 積極的に摂取した個体への淘汰圧力の結果である

文明以前 それこそヒトにまで進化する以前の生息環境下において 「生存にとって有利な行動バイアス」として統率的協調性や盲目的権威服従性が組み込まれたことも 現代社会においては到底合理的であるとは言えない

先天的本能習性というものは あくまで「結果」であって あらゆる環境条件下において適応的で合理性が存在する保証は何もない

先天的本能習性というのは意図目的に基づいて意識的に合理性を追求したものではなく あくまで「死なずに生き残った」という結果以上の意味は存在しないのである

「進化は人間よりも賢い」などというデマを鵜呑みにしておけば バカな生物学者共や大衆マスコミは遺伝的進化を万能の願望器か何かだと錯覚して満足しようとするが これはあまりに無責任なオカルトである

断片的にはバイオミメティクス的応用可能な遺伝的進化も存在はするが 決して遺伝的進化は完全無欠の万能なものではなく かつての生息環境によっては著しい欠陥をもたらすことも充分にある

遺伝的進化の全てが常に生存や種の保存などに適する保証は何もなく 実際に大規模大量絶滅は幾度も起きているものであって むしろ膨大な「進化の袋小路」という失敗の果てに偶発的に「死なずに生き残った」ものを生物と分類しているに過ぎず 生物やその遺伝的進化には目的も合理性の保証も存在しないのである

 

ヒトは 論理科学的根拠を伴わぬ嘘やオカルトであっても 気分的に満足安心できる話の方を信じようとする習性がある

ヒトの脳は信じたい話だけを信じようとするのであって 論理客観的に真実なのかどうかは優先順位が低いという先天的欠陥が存在しているのである

だからこそ簡単に詐欺にカモられる

しかも 「自分だけは絶対に大丈夫」という根拠のない過信こそが 気分的安心満足を得られるために どんなに特殊詐欺(もはや電話やフィッシングメールによる詐欺の方が「一般」化しているが)の手口を紹介しても 一向に被害は減らないのである

 

世の中というものは 相互信頼関係によって成立しているのだが 誰が嘘つきなのかは検証し 特定する必要性はある

「本当に信じて良い相手なのか」は区別する社会的義務は存在するのである

嘘つきを信用していれば 社会安全性や持続可能性は低下し 破綻への暴走しか陥らないからである

嘘つきかどうかを見極めずに盲目的に信用することこそが社会的には無責任であり 信頼に値しない行動選択に陥ることになる

 


なぜ こうした反証の必要もない簡単な理屈が多くのヒトには理解できないのかと言えば 「自分だけは絶対に騙されていないはずだ」という根拠のない自己過信に満足安心できるからである

ヒトは安心満足できることだけを信用したがる

だからバカが治らない

何度でも通り魔やテロなどの非合理な暴力行為は繰り返し 原因究明も論理客観的に具体性のある対策もされることはない

にも関わらず 自分達を知的生命体だと形容し 論理的根拠のない「叡智」に頼りすがることでどうにかなると「思って」いるのである

バカが治らないのに叡智もスッタクレもあったものではない

 

 

 

 

Ende;

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