書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

コソーリ

2021年08月10日 17時45分49秒 | 意識論関連

速読っていうのは 内容を憶えてはいるんだけど 理解はしていない

主観的解釈として「わかった」ような気分にはなっても 内容に間違いや嘘があっても指摘することはできない

「何ページの何行目に何て書いてあるのか」はわかるんだけど

「その内容は論理的に正しい話なのか」はまるでわかっていない

記憶の「量」を自慢しているだけであって 理解能力はチンパンジーレベル

要は「何も理解していない」

養老孟司の著作を速読暗記したところで その内容のどこに論理的齟齬とか論理整合性の破綻があるのかは 誰もわからない

イマヌエル:カントの「純粋理性批判」も同様

何かが「わかったような気分」になっているだけであって 論理客観的に理解しているわけではない

そもそも論理的には何も論証していないからな

 

悟性だの純粋統覚だの叡智界だの 「絶対に知覚することができない」と明言している話を どうして鵜呑みにできるのか

なぜ「絶対に知覚することができない」と言えるのか

なぜ「絶対に知覚することができない」ものが実存すると言えるのか

その論理的証明は一切されていない

「理性を超越」などと称して論理的根拠や証明を問答無用でパスしているのに それが「哲学」だと 「考えること」だと どうして言えるのであろうか

このことについて世の「哲学者」共は誰も言及すらしたことはない

要するに「デクノボウの群れ」に過ぎないのである

信じたいか信じたくないかは知ったことではない

畑村洋太郎が理解できる形で説明することを 一体誰ができるというのであろうか

畑村洋太郎に説明したら おそらく「お前は頭がおかしい」と指摘されて大学から追放されるのがオチである

だから 誰もしない

コソーリと内緒にしておけば バレないと思っているのであろう

 

 

Ende;

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禁断症状

2021年08月10日 14時46分25秒 | 意識論関連

千住真理子なんか世間的 外見的には「ストラディヴァリウスに呪われた殺し屋」みたいで あんまり羨ましくは見えないだろう

加藤英明も「爬虫類に取り憑かれた研究者」みたいで 世間一般的には「真似したい」と思う人は稀だろう

千住真理子も加藤英明も 世間的評価というか 有名ではあるものの 好きなこと以外にはあまり興味を持たず 外見上はストイック(禁欲的)に見える

当人的には大好きなことに四六時中熱中できていることで満足しているため それ以外の外見的な物質的豊かさには興味がない

本人は楽しい だけど 必ずしも外見的に物質的豊かなようには見えず むしろ禁欲的にそれ以外には興味を持たない

千住真理子はあまり他人への配慮があるようには見えないのだが

加藤英明の方は珍しい海外の爬虫類も大好きではあるものの 日本国内に有害な外来種が繁殖してしまうことには心を炒めて(イヤチガ)痛めている

好きなことに熱中し続けるためには 社会環境が安定して安全で持続可能であって欲しいと思うことによって 人は社会への配慮も働くようになる

他人への配慮が働かないバカというのは 自分が主体的に熱中できて楽しいと思える純粋行為がわからないからである

目先の欲望に囚われて迷惑行為ばかりやっているバカと 「ストラディヴァリウスに呪われた殺し屋」と どちらに人間性や倫理が伴うであろうか

大体において「レベル違いな人」というのは迷惑行為には及ばず あんまり羨ましくはないものの 一応社会的責任判断能力は持ち合わせている

「レベチ」な人というのは 他人からの評価が欲しくてやっているわけではないので 誰からも評価されなくても勝手に好き放題熱中しているから「レベチ」に達してしまっているのである

「レベル違いな能力に達して世間的評価をされたい」という不順な動機ではなく 好き放題好きなことに熱中していたら結果的に「レベチ」人になってしまっていたのである

だから最低限の社会的責任判断はできる

それで良い

人間性や倫理を「競う」必要性は全くない

「俺の方が人間性や倫理に優れている」などと自慢するようなものではないからだ

そもそも「自慢」というのは 他人との比較において「俺様の方がお前らよか上だぞ」という高慢な発想から出てくるものであって 人間性や倫理の論証には全くならない

人間性や倫理というのは 人間の社会性としての最も重要な価値であり どんなに多数で集団組織的に何かをやらかしても それだけで人間性の論証には全くならない

各々が自分の人生の楽しみを持つことによって 個人が自律的な社会的責任判断選択をしていれば 本人の想定外の過失以外の「人災」はなくなるのである

そして 想定外の過失であれば 過失例として共有することで再発防止につなげることで 社会安全性は高めることに貢献することも可能である

しかし 想定可能な危険性 例えば「飲酒運転」などは 本人がバカなのでどうにもならない

「酒」という目先の欲望が優先してしまい 自律的な社会的責任判断選択をしないバカでは どうにも再発防止対策などの「教訓」が導き出せないのである

「悪いことをしては いけません」などという 幼稚園レベルの教育をバカに施しても バカなので耳を貸さないので意味がない

困ったことに バカというのは酔っ払いと一緒で 「自分だけはバカじゃねぇ」と「思って」いるのでタチが悪い

難治性が酷い

目先の満足安心が短絡的に「正しい」ことになってしまっているので 考えが浅く 配慮が足りない

ルカシェンコとか名古屋市長とかヒトラーとか麻原彰晃とか養老孟司とか 挙げたらキリがないのだが 論理的根拠のない嘘でも平気でつくのでタチが悪い

目先のカモを騙して金儲けさえできれば それだけが「意味」だと思っているのである

 

私は別に他人をバカだとくさして「俺様の方が優れている」などとは全く思っていない

むしろ 私ごときでもわかる程度のことすら誰も考えていない大衆マスコミの頭の悪さについて嘆いているのである

私の言っている内容に対して気分が悪くなるとすれば それは自分の頭の悪さに心当たりがあって「図星」だからこそ気分が悪くなるのである

心当たりがないなら 別に「そういう種類のバカもいるんだな」と他人事にしか感じることはない

むしろ 「そんなの当たり前の話だな」としか思っていないはずであり 気分が悪くなることはない

 

洗脳というのは 洗脳されている当人的には気分が良いから洗脳されているのであって

逆洗脳とか脱洗脳のためには逆に気分の悪い状態に陥るのは必然というものである

カルト宗教の信者に「お前の信じている教祖はキチガイだぞ」なんて言ったら拒絶反応を示すでしょ それと同じですよ

脱洗脳をされると気分が悪いものなんです

薬物中毒患者の禁断症状と構造は一緒

 

真実か そうでないかは 論理客観的根拠に基づいて判断すべきものであって 個人の主観的好き嫌いだの「信じたいかどうか」は根拠証明にはならない

真実が何かを区別できなければ そりゃ嘘を鵜呑みにして無意味だったり逆効果なことでも邁進暴走することに陥るのは当たり前の話

皆で仲良く破綻への暴走をしてりゃ 気分的には安心なのかも知れませけどね 論理客観的には安全ではないんですよ

自分における社会的責任の範囲内において 自律的に責任を負うことが 人間としての社会性なんであって 先天的本能習性で論証できるようなものではないんですよ

構造原理的に不可能なんですよ

だから 松沢哲郎の言っていることは「嘘」なんです

わからないのであれば わからないと判断を保留すれば良いんですけどね 理解できないくせに気分的に「信じたくない」と拒絶するのは むしろ洗脳されている故の拒絶反応や 中毒の禁断症状なんすよ

それすら「わかんない」っつうんなら もう知らないよ

 

 


Ende;

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責任の範囲外

2021年08月10日 14時46分25秒 | 意識論関連

以前にも書いたことがあるんだが

甥っ子が小学生の時に プレイステーションでクラッシュ・バンディクーをやっていたのだが

まるで「家事ヤロウ」以外の番組に出演しているカズレーザーみたいな死んだような目でつまらなそうにやっていたので 「それ 楽しいのか?」と訊いたら 「… そんなには…」という答えが帰ってきた

「じゃ 何でやってんの?」と訊くと 「学校で友達と話が合わなくなるから」という どっかで聞いたような答えが帰ってきた

下手すると 小学生がゲームをやるのは ゲームが楽しいからではなく 本当は全員「学校で友達と話を合わせるため」だけにやっている可能性もある

”ゲーム=楽しいもの”という刷り込み(根拠なき常識)でやっているだけであって 本当は誰もゲームなんぞ興味はないのではないか

バーゲンセールで商品を奪い合って欲しくもないものに無駄遣いするのと同じようなもので 状況とか環境に無意識に流され 本当はやりたくもないことを必死になって集団でやっているのではないか

冷静になって考えてみたら 本当はそんなに欲しくもやりたくもないことなのに 皆が競うようにやっているもんだから やらないと損なんじゃなかろうかという「感覚(錯覚)」に流されていることって 結構ありがちなのではないか

それが「無意識」というものの正体である

「冷静になって考えてみたら」ということは 要するに「目先の感情に無意識に流されてやっているだけ」だからこそ「冷静」になれば無駄だと気づくことができるわけで

これって振り込め詐欺に騙されているのと構造的に一緒なんだよな

冷静になって考えれば 「ウチの息子や孫は犯罪や事故に本当に巻き込まれているのかしら そもそもお金払って刑を免れることなんてできるわけないのに」って気づくことは簡単なはずである

「約束手形をなくした」なんて話であっても 冷静に考えたらなくした手形は銀行に停止してもらって新しく発行すれば良いだけの話であって 「何でアタシが肩代わりしなくちゃならないの?」って気づくことは簡単なはずである

そもそも取引のない銀行に他人の手形持っていって現金化することなどできるわけがないだろ

何千万円もの大金を即日に工面できるほどの資産がありながら 手形がどういうものなのかを知らないというのは随分おかしな話である

 

何が言いたいかというと 目先の感情が論理客観性を失わせることこそが 「無意識」に無駄な行動を採ってしまう原因であるということ

それなら 意識の本質とは何かと言えば 自ずと「冷静になって論理客観的に考えてみること」なのである

バカというのは冷静に物事を考えることを「人間味がない」だとか形容して 頭ごなしに否定したがるが ヒトという種の生物が先天的にバカで欠陥を持っている以上 ”人間味=人間性や倫理”という方程式は成立しない

カモが騙されて暴力団に資金提供しておいて 「人間性」があることの論証になどならんだろ

感情というものは先天的に組み込まれた本能習性に起因するものであり かつての祖先がかつての生存環境にとって有利になる適応的行動習性が組み込まれているに過ぎない

だから焦って感情的になると冷静さを簡単に喪失してバカみたいな無駄な行動でも達成するまでやめることができない

何を達成するのかといえば 「気分的に安心満足するまで」という主観的な達成感だけであって 別に合理性があるわけではない

論理客観的な合理性ある安全性の保証が確認されるかどうかに関係なく 主観的安心満足することだけを「達成」しようとする

ヒトとは そういうものなのである

だが これは「結果」であって「目的」でも「考え」でもない

こういった欠陥が先天的に存在することを踏まえて 気分感情だけに流されることなく 論理客観的に物事を把握しないと失敗する可能性が高いことを自覚しておく必要性がある

ヒトという種の生物は先天的にはバカで欠陥があるものだが 欠陥がどういうものなのかを理解し 把握し 論理客観的に検証(考え)することで バカげた行動に陥らないように回避することができる

 

他人と比較して特定の能力が高いことを自慢して まるで人間として優秀であるかのように錯覚して満足することは簡単であるが クイズの正解率だの学力試験やIQの偏差値だのは それだけでは人間性としての価値基準には全くならない

本当の人間としての価値基準とは 他人と比較できるようなものではないからだ

個人が自律的な社会的責任判断をするのは むしろ人間として当然のことであって 褒められなくても評価されなくても 逆に組織から排除されるとしても全うする必要がある

原発の安全担当者が 原発の津波に対する脆弱性放置を「東電の組織体質が悪いからだ」と言い出しても そんなもん言い逃れにもならない

社会安全性や持続可能性を追求しても 金にもならなきゃ評価にもなりゃしない

それでもやるのは 自分が生きていく上で破綻することがわかっている社会には生き続ける必要性が論理的に存在しないからである

「人が人を殺してはいけない理由」はないが 「人が人を殺してまで生き続ける理由」もまたないのである

生存そのものにいくら執着しても いつか必ず死ぬことからは逃れられない

自己の生存にとっていくら有利な行動を選択しても 社会全体が破綻してしまったのでは自分が何年生き延びても 人間として満たされる人生にはならない

論理客観的に考えれば それは明白であり 何が本当に「正しい行動なのか」は誰もが「知って」いるのである

それともバカ過ぎて理解できないバカしかおらんのか?

まあ 養老孟司の「バカの壁」だのイマヌエル:カントの「純粋理性批判」なんぞを鵜呑みにしているようなバカしかおらんのなら 本当にバカしかいないのかもね

そらもう私の責任じゃないからな

とてもじゃないが面倒看きれないよ

 

 

 

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知る由もない

2021年08月10日 12時23分57秒 | 意識論関連

小田急線で刃物振り回して暴れた男は中央大学理工学部に入学していたそうだ

中退したともあるが

中央大学理工学部の偏差値は55.0~57.5だそうで

通り魔の類いは高い確率で学生時代に学力が高い傾向が見られる

偏差値は高いが サラダ油でテロができると思っていた無知でもある

理工系に進学したにも関わらず 可燃性の高いものが何なのかを知らないというのは本当は別に理工系に興味があったわけではなさそうだ

主体的な「目的」がないんだろう

だから他人との比較や物質的豊かさにしか興味がない

「目的」がないというのは 「本質的な意識」もないことを意味する

だから 理工系学部に進んでいても 論理客観的検証という「考え」は働かない

逮捕直前コンビニ店内で見知らぬ他人に「握手しておきますか? 俺有名になるんで」などと言ってたそうだ

多分「有名になる」ことが短絡的に「勝ち」か何かだと勘違いしているらしい

凶悪犯罪者というのは 時折「歴史に残る犯罪を犯してやる」だとか言い出す奴がいて 「何人殺したか」などという数字にこだわったりすることがよくある

要は価値観が幼稚なのだが 脳が育たなかった原因というものを検証し 同じ様なバカが出てこないように対策を立てないと 何度でも同じ様なバカは再生産され続けることになる

被害者に死者がいないことから 司法は殺人未遂だとか称して懲役刑で済ますつもりだろう

だが 強盗殺人で25年刑務所に入れても出所後すぐに殺人を犯す例もあることから 懲役刑に再犯防止の効果を期待すべきではない

社会安全性の観点からは 意味が全くないのである

更生治療も重要だが それと同時に「なぜ無差別殺人などという誰にも得にならない非合理な行動を採ったのか」についての論理客観的原因検証によって 似たような発想に陥るバカを再生産しない対策が必要不可欠である

「勝ち組」などと称して 収入や資産の「量(数字)」だけで あたかも人間として優秀であるかのような錯覚に陥っている価値観を鵜呑みにするようなバカを再生産しない必要がある

「勝ち負け」などというのは 結局金銭だの地位権益だのを基準にしたものであって 本質的には「人間としての価値」にはならない

ゲームじゃねぇんだから

「東大に合格したら勝ち組」だとかいうのも 東大医学部の学生が地下鉄テロをやらかした事実を無視したデクノボウの発想であり テロリストや通り魔の多くは「学生時代に学力が高い」という傾向を 多くのヒトは忘れているのである

現状の学校では 学力偏差値こそが価値であるかのような教育をしているため 生徒の価値を偏差値だけで測っているからこそ 生徒の多くはその価値観を鵜呑みにして 何の疑いも持たずに「偏差値さえ高ければ褒められる勝ち組なんだな」という妄想錯覚を鵜呑みにしてしまうのである

別に路傍の花の色や夕焼けの空の色に関心を持たなくても構わないのだが そういった些細な世界の美しさに気づけない時点で精神に余裕がない証拠である

他人との比較は競争にしかならない

競争であれば他人を蹴落とすことも正当化される

卓球などのスポーツなら 相手が嫌がることをわざとやったりするものだが それはルールに基づいた「ゲーム」の中だけの世界であり 単なる「お楽しみ」「お遊び」の域を出ない

それでも 熱中できることがあれば その熱中できることを続けるためには社会の安全性や持続可能性にも配慮が働くようになる

重要なのは 勝ち負けという結果ではなく 好きなゲームに熱中して楽しめるという純粋な行為 その過程に「個人的な価値」が存在するのである

下手くそなプログラミングや造形やプラモデルや写真であっても 個人的に楽しいと思っているからこそ それを続けられる社会にも配慮ができるようになる

勝つ必要性は特にない

卓球だってオリンピックで金メダルが獲れる人は4年に一人だけであり それ以外に何の価値もないわけではなく 温泉卓球でも「楽しい」なら 個人的価値にはなる

自分が個人的に楽しいと思えることを続けるためには 社会が安定して安全で持続可能であることが大前提だからであり 自分が楽しんでいることを他人から評価順位をつけられる必要性はない

勝ち負けというのは「他人が作った特定の基準」に基づいたものであって 自分自身の価値観とは必ずしも合致するとは限らない

勝つことを目的にしているから「迷惑な撮り鉄」だとか「迷惑系ユーチューバー」も出てくるようになる

フォロワーだの閲覧数だの「いいね」だのといった数字を競っても それで人間としての価値が決定するようなものではないことは バカでなければわかるはずなのだが バカというのは後を絶たない

原因はわかっている 評価承認欲求中毒だけが価値の全てになっていて 他人との比較でしか物事の価値を判断できないからである

 

人間性や倫理性は他人とは比較競争ができない というか 比較競争するようなものでは最初からない

自分が主観的に楽しめる人生を送れる社会の安全性や持続可能性を 自分が求めているから発揮されるのが人間性や倫理であって

評価承認欲求に意識を奪われて他人との比較競争にしか価値を見いだせないからこそ 個人的な人生の楽しみ 純粋行為に価値を見いだせなくなるのである

いうなれば 目の前の吊るされたエサに意識を奪われ 自分の人生全体の「目的」を見失っている状態である

多くの人が欲しがるエサの奪い合いに意識を奪われ 本当に自分が欲しいものが何なのかがわからない

まるで「バーゲンセールで欲しくもない商品の奪い合い競争で無駄遣いするバカ」と一緒である

だから何でもかんでも「どうすれば良いんですか」という質問ばかりをし続ける

もはや機械か蟲である

条件反射的に「どうすれば良いんですか」としか訊いてこない

終いにゃ「私は何が好きなんですかね」的な質問までしてくる始末である

お前の好き嫌いなんぞ俺が知るかバカ

 

 

Ende;

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