猿山のサルに リヤカーいっぱいのサツマイモで給餌している映像って
見たことないですかね?
飼われているサルの場合 毎日充分なエサを与えられているにも関わらず 奪い合いでケンカしたりもする
無駄なんですけどね
むしろエサを喰いすぎて生活習慣病になったりしている
冷静に「毎日充分足りてるじゃん」とは思わない
なぜかというと 自然環境下においては飼育環境下とは異なり 環境資源(エサ)が乏しいため 食べられる時に食べておかないと飢えて死んでしまうので 必要以上に食べようとする個体種への淘汰圧力の結果として がめつくエサを奪い合う個体種への収束進化が進んだ結果 先天的に奪い合うことが本能習性として組み込まれている
飼育環境下なら 毎日充分なエサを与えられているにも関わらず エサを独占しようと奪い合うことをやめようとはしない
それは「学習」できない
それが「サルの正義」であり サルの先天的本能習性というものである
いうなれば 「遺伝子レベルの貧乏性」とも言えるものであり 合理性を欠いた無駄な行動を抑制することは出来ないのである
遺伝的進化というものは 過去の生息環境における淘汰圧力の結果を色濃く反映するものであり 環境変化に対して柔軟に適応することができない
寒冷地に適応したネアンデルタール人は 地球レベルの環境変異に適応できずに絶滅したとも言われている
知らんけど
ヒトが ヒトの個体が自律的な社会的責任判断選択よりも 目先の利己的利益や組織への同調迎合ばかりを優先してしまうのも かつて祖先の生息環境における淘汰圧力の結果である
「怖い相手には逆らわない」という卑屈な態度が野生環境下においては生存に適することになる
だからイジメは誰も止めなくなる
イジメの標的は 大抵弱者とか少数派である なぜなら「攻撃しても反撃されそうにないから 怖くない」からだ
これがヒトの先天的本能習性というものの実態である
利己的には怖い相手には服従迎合し 同調しておいた方が「自分の身のため」ではある
「生き残る」ためには卑劣であろうと残虐であろうと構わない だから私は繰り返し「生存自体に意味はない」と言っているのである
そこには人間性や倫理は不要にされるからである
社会安全性や持続可能性のためには人間性や倫理は必要不可欠なものである
どうせ誰もがいつかは死ぬのに 何で他人を危険にさらしてまで「生き残ら」なければならないのか その「理由」がないことを理解しているから 人間性や倫理に適するのである
他人への迷惑に配慮の出来ないバカと 配慮のできる人と 自分はどちらになりたいのか その選択は理性である 先天的な生存本能にはない
それこそ「悟性」なんつうのはカントの妄想ファンタジーに過ぎず 糞の役にも立たないばかりか 「理性を批判する理屈」などというトンチンカンな話で大衆の脳を酔わせ 思考を撹乱して真理から遠ざけるオカルトである
大脳辺縁系を損傷してしまうと何も感じなくなってしまうため 赤ん坊が丸焦げにされた映像を見せても食事に支障はなくなるのだが それは別に人間性の反証にはならない
単に他の人から見た主観的な「印象」として違和感を覚えるだけであって
実際には大脳辺縁系を損傷した人が利己的利益追求のような非情な行動に執着するようなことはなく
純粋理性状態というのは 実際には批判対象ではなく 人畜無害なのである
ナチス政権下のポーランド アウシュビッツ ビルケナウ ユダヤ人絶滅収容所の官吏 アドルフ:アイヒマン中佐は ユダヤ人を効率的に殺害するための計画書の作成に邁進したが 屍体を直接見ることは嫌ったという
ありていに言って「飯が不味くなるから」であろう
それが人間性の論証には絶対にならない
「この世に絶対なんぞない」と言われるが これは絶対である
「ヒトは素手では空を飛ぶことはできない」くらい絶対である
「赤ん坊の屍体を見たら食事が喉を通らない」からといって それが短絡的に人間性や倫理の論証には全くならないからだ
原発の津波に対する脆弱性を放置した東京電力の安全担当者であっても「赤ん坊の屍体を見たら食事が喉を通らない」だろう
「赤ん坊の屍体を見たら食事が喉を通らない」という主観的感情があるだけでは 「常に人間として倫理的行動が採れること」の論拠には全くならない
振り込め詐欺師であっても「赤ん坊の屍体を見たら食事が喉を通らない」だろう
暴力団員であっても「赤ん坊の屍体を見たら食事が喉を通らない」ない奴もいるだろう
大脳辺縁系を損傷しておらず 精神を著しく病んで異常な趣味でもなければ大抵の場合は「赤ん坊の屍体を見たら食事が喉を通らない」ことは珍しいことでも何でもない
それなら世の中の大半を占めるバカな大衆に人間性や倫理が働くのかと言えば そんなことは全くないのである
だから社会の諸問題が全く解決しない
気分的に その場限りに「優しい気持ち」にさえなっときゃ人間性だと
気分的に その場限りに気分が良くなるようにご機嫌取りをしてくれさえすれば人間性だと
そういうバカげた根拠のない観念を鵜呑みにしているバカなら 自律的な社会的責任判断能力は発揮することができない
バカは自分の主観的「印象」でしか物事を判断できず 論理客観的真偽の判断ができないからである
マスコミ記者が首相や分科会会長に対してぶら下がり密集囲み取材を一切やめようとしないのも 「猿山のサル」や「バーゲンセールで奪い合いをしているバカ」とやっていることは一緒である
「みんながやっているから仕方ない」と称して 自分には責任がないと「思って」いるのである
NHK主導で民放各局と協議して密集囲み取材にならないように工夫するという「考え」は全く出てこない
慣習を繰り返してさえおけば安心満足で その慣習に問題があっても対処することができない
脳容積が充分であっても自分では物事を判断選択出来ない「残念な生き物」なのである
無責任で卑怯な行動を採っていても 大多数の他人が責任ある行動を採っていれば 自分だけは「得」をすることはできるが
これは社会という多数他人に対する「甘え」である
たとえどんなに経済的に「自立」できているとしても 社会的責任を負っていない以上は 人間として社会的には「自律」できていないのである
人間性や倫理というものがなければ 社会は崩壊する
当たり前の話である
当たり前の話を自発的に気付くことができないのは
「バカ」だからである
以上の話で気分が悪くなるなら それは心当たりがあって「図星」だからである
バカは反射的に拒絶反応を示し 都合の悪いことには耳を貸さなくなるものである
だからバカというのは難治性が酷い
カルト宗教の信者や 「へずまりゅう」だの田代まさしと一緒である
自分がバカのままで良いのかどうかは 私が決めることではない
Ende;