書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

本当の過ち

2021年08月15日 16時13分15秒 | 意識論関連

スーパーのレジに並んでいた時に

レジ直前で空けていたディスタンスに高齢女性が割り込んできた

「え!」とは一瞬思ったが まあ仕方ないと無視してそのまま先にお会計をさせておいた

高齢になると視野が狭くなることもあるので 私が並んでいることを見落としたのであろう

相手はいわば社会的には「弱者」でもあるので 目くじら立てて「俺の方が先だろ!」とかは言わなかった

特に急ぎの用事もなかったし

 

だが 相手が学術権威で 科学的根拠のないデマを流布していた場合には話が違う

権威という社会的には「強者」であるから これは徹底して攻撃対象にする

デマや嘘を流布していたのでは「権威」としても社会的役割を果たしておらず 無責任だからである

医療臨床では科学的メカニズムがわからなくても 多くの場合効いているだけで利用されている治療法というのはよくある話ではあるのだが

これは進化生物学における遺伝的進化の「結果」にまで拡張解釈するのは大間違いである

遺伝的進化の「結果」というのは 過去にどのような経緯を辿ったのかを全て把握できているわけではなく 現在生き残った生物種やウイルス株だけでしか類推することができないものであり 医療臨床のように豊富な臨床データに基づいて判断するのとは話が根本的に異なる

結果だけを見れば遺伝的進化というものは「種の保存にとって合理的」だとは言えるが それは「種の保存」自体が結果に過ぎず 結果に対して合理的な進化が起きるのは必然的当たり前の話である

液体が低い場所へと流れる自然現象という結果から 「液体は低い場所へと流れることが目的である」という帰結にはならない

河川は 最も合理的な流路を選んで流れるが 別に河川が海に至ることを目的として合理的流路を選んでいるわけではなく 結果的に最も合理的流路になっているだけの話である

遺伝的進化というものは 自然現象であって シーケンシャルに生ずる「結果」以上の意味は存在しないのであって 結果だけを抽出枚挙してきて「生物の目的は種の保存だ」などという話は 結果に対する事後正当化のこじつけでしかない

 

リチャード:ドーキンスは 進化的にヒトには利他的行動へのバイアスが組み込まれている可能性について言及しており これがバカな大衆や生物学者にとっては「ヒトには先天的に人間性が組み込まれていて 本能習性任せにしておけば自動的に人間性が発揮される」というトンデモナイ大嘘に利用されているのである

利他的行動はヒトでなくとも大型のオウムでも採るという

利他的行動を採れば あたかも人間性の論証であるかのように錯覚可能かも知れないが 振り込め詐欺師が仲間内で飯を驕ったからといって人間性の論証にはならない

残虐なゲリラやテロリスト同士で統率協調的行動を採っても その仲間内における利他的行動も 人間性の論証には全くならない

バカな大衆は 自分が主観的に気分が悪くなる話をする相手の言っている内容は論理的に理解したがらず 気分が良くなる話だけを信用したがるものである

だから 目先のご機嫌取りや 形式的マナーだけを根拠に勝手に相手に順位序列をでっち上げ 論理客観的根拠もない「常識」的な安心できる話以外には耳を貸そうとはしなくなる

”主観的に気分が良くなる話=正しい話”という解釈しかしたがらないため 論理客観的根拠に基づいた真実の論証には耳を貸さなくなるのである

主観的 観念的に「わかったような気分」に陥っているだけであって 論理客観的には何も「理解」などしていないのである

だから簡単にデマやペテンに騙される

そして 厄介なことに 一度信じ込んだ話を否定されても 過去に一度信じ込んだ自分の判断を事後正当化する形で 気分が悪くなる話には耳を貸さなくなるのである

これが「認知的不協和理論」の肝である

「認知的不協和」なんて熟語を使われると 何やら複雑で難解な印象を抱いてパンピーには理解できないものなのではないかと錯覚しがちだが

実は「気分が悪くなる話は信じたがらない」だけの理論に過ぎない

一度カルト宗教の教祖を信じ込んでしまうと 信じ込んだ自分の判断を事後正当化する形で否定的な話は全部「嘘」だと否定するようになる

これが「洗脳」というものである

 

ヒトは 先天的な「社会性」という性質があり 統率協調的に権威に服従することで狩猟採集生活の時代には生き延びることができたため 先天的に狩猟採集生活に適応した盲目的な権威服従性が動物行動習性として組み込まれており それが原因でミャンマー軍事政権や香港警察のような封建的独裁にも簡単に迎合してしまうのである

ヒトがヒトにまで進化したのは 生物進化の歴史の中ではごく最近の話であり 生物史全体から見たらヒトなど「新種」に過ぎない

ところがヒトというのは 自分が生まれて数十年の間しか知識がないもんだから それだけが歴史や世界の全てだと勘違いし 過去に起きた事象には興味が働かなくなるため 遺伝的進化を万能だと錯覚したり カルト宗教にのめり込んだり 詐欺師に簡単にカモられたりするのである

その意味において ヒトは何ら「知的生命体」などではないのだが 他人の業績を単に「知っている」というだけで あたかも自分自身でも気付くことが可能な能力であるかのように錯覚し 自らの頭の悪さを自覚しなくなるのである

どんなに大量の知識を知っていても イマヌエル:カントの「純粋理性批判」には論理的飛躍や勝手な決めつけがが著しいことには気付くことのできないバカの方が圧倒的に多いのである

ヒトの大半は「痴的生命体」である

だから戦争だの無差別殺人だのイジメだのヘイトが治まらない

ヒトが先天的にバカであることを自覚認識していれば バカげた錯覚に惑わされて無駄なことに邁進したり 他人に多大な迷惑をかけたりせずに済むのである

ヒトがバカなのは ヒトのせいではない

だが バカなのを自覚したがらないのは本人の責任の範疇である

間違えることそのものが間違いなのではなく 間違えたことを自覚認識しようとせずに間違った認識を押し通そうとすることこそが「本当の間違い」なのである

「過ちて 過ちを認めず これ本当の過ちなり」って 論語だったっけか? 何か中国の古典になかったっけ

ググれば出てくるかもね

 

知らんけど

 

 


Ende;

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感情という無意識

2021年08月15日 11時30分38秒 | 意識論関連

DaiGoの問題発言もそうなんだが 個人の主観的な好き嫌いは社会的正義にはならない

個人的好き嫌いを述べるのは勝手なんだけど それを法律などの社会制度に持ち込んだら狂人にしかならない

ヒト個人には それぞれ個人的な好き嫌いってのはあるんだけど それはあくまで個人的なものであって 社会的な価値があるわけではない

「人が人を殺してはいけない理由」はないのだが

「人が人を殺してまで生き続けなければならない理由」もないのであって

客観的に考えて 自分の発想を他人に置き換えてみれば 個人的な好き嫌いで他人に順位序列をでっち上げて差別されることの危険性は ちょっと考えれば誰でもわかる話である

個人的な好き嫌いで他人を差別して存在価値を勝手に決めつける奴は頭がおかしいことくらい いちいち言わなくてもわかりそうなものだが

主観的な好き嫌いというものを意識の主体だと 意識の本質だと勘違い錯覚しているからヒトは簡単にヘイトに陥る

「ヒトは皆レイシストである」と述べた方がいて 「ヘイトスピーチに熱中しているキチガイの群れが嫌いだという自分もまた差別主義者だ」とつぶやいていたことがある

私も夜中に泥酔して騒いでいる糞DQNは大嫌いだが 糞DQNが糞DQN行動を採る原因を究明し 他人の迷惑に配慮ができなくなるメカニズム構造を解明することが必要だと考えている

これは犯罪者も同じことで 他人の迷惑に配慮できないからこそ犯罪に手を染めるのであって 自律的な社会的責任判断選択ができていれば他人の迷惑にも配慮ができるようになる

他人の迷惑にも配慮ができれば犯罪者にも糞DQNにもならないからだ

 

DaiGoは また こうも発言している

「犯罪者が社会の中にいるとみんなに害があるでしょ?だから殺すんですよ。同じですよ」

これはつまり 死刑制度を含めた刑法罰のことを言っているのである

相模原障害者施設津久井やまゆり園虐殺事件の植松聖を死刑にしたら 障害者差別や虐殺事件はなくなるだろうか?

通り魔やテロリストを死刑にしても 無差別殺人事件がなくなる構造的原理は存在しないのである

無差別殺人者を嫌わない者というのは極めて稀だろうが 嫌いという主観をどんなに多数集めてきても それが短絡的に社会安全性などの公益性に寄与することの論証にはならない

 


ホームレスなどの貧困者と一言で言っても 当人の努力だけではどうにもならない構造的問題というのも存在しているのであって 単に「ホームレスだから要らない」とい話にはならないのである

確かに悪質なホームレスというのもいて 生活保護を受給した即日にギャンブルに注ぎ込んで 後はボランティアの炊き出しで食いつなぐという身勝手な奴もいるこたいるのだが ホームレスの全員がそういう身勝手な生活保護の主旨を逸脱した使い方しかしていないわけではない

「ホームレス」の一言では 人間性とか倫理性を量ることにはならないのだ

それは「犯罪者」でも同じである

司法裁判では 犯罪者の悪質性とか更生の余地とか被害の大きさなどを勘案して 刑罰の重さを決めているが 犯罪者は全員同じではないため 同じ罰を与えても更生する場合もあれば 更生するどころか出所後数日で再犯することも非常に多い

日本での再犯率は50%程度あり イギリスでは75%にも達するという

司法の勝手な判断によって 社会安全性が蔑ろにされている現状を放置すべきではない

犯罪者がなぜ 自律的な社会的責任として他人の迷惑に配慮ができなくなっているのかについての科学的構造原理を解明することで ヒトが持つ先天的危険性などの欠陥を補うための重要な 対策に有効な知見として利用することが可能である

 

意味のわからぬ無差別殺人や傷害事件というのは後を絶たない

「意味がわからない」という点においては 実際には「刑法判決で解決だ」という結論もまた同じことである

ヒトは暴力を振るうと脳が気持ちよくなる

映画や漫画の多くが暴力で何かを解決する物語に人気があるのも それが原因である

フォートナイトのような殺人ゲームも人気がある

ヒトは 嫌いな奴を殴っておけば快楽を感じる習性があるため 殴ってさえおけば何かが解決したと錯覚して満足し それ以上の何もしなくなるのである

悪質な犯罪者であっても むしろ悪質であるからこそ 「なぜ自律的な社会的責任を負わず 他人の迷惑に配慮できないのか」についての原因究明において 最適な「検体」だとも言えるのである

それを刑法によって死刑にしてしまっていたら 本当の「真実」は闇に葬られてしまうのである

それが原因で無差別殺人が無為に繰り返されている以上 死刑制度を含めた刑法そのものを批判しない国民全員の責任でもある

 

ヒトは 主観的に気に入らない相手には短絡的に懲罰を与えて満足しようとする習性がある

JR西日本による懲罰的「教育」こそが 尼崎列車脱線事故の原因であることは 遺族達による検証によって明らかになっている

暴力的抑圧によって恐怖で他人を支配することは 個人の主体的判断能力を失わせてしまい 「秒単位で決められたダイヤを守ることだけ」に意識を奪われることで 速度超過で急カーブに突進した結果が大惨事となったのである

これは刑務所も同じである だからこそ再犯率が高留まりして改善しない

他者から与えられる恐怖で抑圧されている状態というのは「他律」である だから釈放されて「他律」がなくなった途端に歯止めが効かずに再犯する

ノルウェーだかデンマークだか忘れたが 北欧で罰を与えない刑務所の再犯率が極めて低く抑えられているという話があった

被害者側からすると 何だか気分的に納得感は得られない話ではあるのだが 犯罪者の多くは幼少期からの虐待によって自律的判断能力を育まれていないという「被害」者でもある

そもそも子育てなんていうのは全員が初心者であって 育て方を間違えて犯罪者にしてしまうこともあるだろう

誰しも「ヒトは間違えるもの」だからである

 

個人的には犯罪者も糞DQNのような脱法犯罪者も全員死ねと主観的には「思う」こともあるのだが これは私の個人的主観や好き嫌いの範疇であって 糞DQNを死刑にしても糞DQNがいなくなる構造的な問題の解決には全くならない

社会安全性にとって最も重要なのは 「気に入らない相手を殴る」ことではなく 「何でコイツは糞しょうもないことをやらかすんだろう?」という疑問を解明して具体的に再発防止につながる対策にまでつなげることである

無差別殺人をやらかすバカというのは おしなべて「社会が悪い」などと言い出すものであるが 社会のどこが どのように間違っているのかを論理客観的に解明し 具体的にどう変えることで改善するのかを提案提示し 地道に一つ一つの社会問題を解決してゆく必要がある

そうした地道で丁寧な対策をすっ飛ばして 「暴力で解決だ」となるからバカなのである

それは刑法罰を放置している国民全員も同じことである

無差別殺人犯を死刑にして満足し 同じ様な無差別殺人が起きても誰も責任を負わない制度を放置していることもまた 無責任の一端を担っているのである

ヒトは 多数で無責任なことをしていると 責任が薄まるような「感覚(錯覚)」によって気分的には平気になってしまう

そういう先天的欠陥を持っていることを自覚しなければ 本当に安全性にとって最も効率の良い対策制度には到達できないのである

 

 

 

Ende;

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